2009年5月20日 (水)

東京生活50年目の音楽史

最近、自分と接点のある音楽関係の番組が2本流れた。ひとつは、テレ朝での「テレサテン物語」。もうひとつは、BSハイビジョンでの「天皇皇后ご成婚50周年即位20周年記念コンサート」の録画放送である。後者の演奏会は、428日だった。

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次男にピアノを習わせていた時、リチャード・クレーダーマンが聴きたいというので、連れて行って以来のNHKホールだった。NHKより手前にある渋谷公会堂には、NET(現 テレ朝)の音楽番組「題名のない音楽会」の収録演奏を聴きに毎月通っていたものだった。

 

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この日は、青学の放送研究部の大先輩と一緒だった。開演19時。開場17時30分。それより早く16時に着いたものの、日本全国から集まった人たちで、既に長い4つ折りの行列が出来ていた。さすがに観客は、年配者の夫婦連れの方々が多かった。立ち並ぶ人たちの表情からは、奉加帳に記入する気持で皇居の中かと思わせるものがあった。私服警官と思われる鋭い眼光もありで、ただならぬ気配を感じながら、1730分を待った。ネックレスから腕時計、金属探知機に反応するすべてのものを体から外させられた。厳戒態勢である。座席は、1階席のR10列。

 

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出演者は、このコンサートのために、スイスやフランス、イタリア、アメリカと海外から一時帰国した。演奏が終われば、再び成田から帰国の途につくという、まさに世界で活躍している日本人音楽家が一堂に会して、天皇皇后を祝福するために馳せ参じた贅沢極まりない演奏会である。第2部には、お二人が臨席され、観客は総立ちでお迎えすることで拍手がしばらく鳴り止まなかった。一般の観客と同席された演奏会は、おそらくこれが初めてのことではないだろうか。

 

拍手をしながら、僕は50年前を思い出していた。美智子妃殿下はご成婚パレードで馬車に揺れていた。青学の正門を通過された。軽井沢とテニスコートとVネックセーターが強烈に浮かび上がった1959年。ミッションスクールの名古屋高校から青学に入って早々の410日だった。背伸びをしながら、ブローニー版のカメラでシャッターをやたらに切った。モノクロフィルムに収めた。ご成婚パレードが実況中継されることで、テレビの普及率が高まり、家電メーカーもテレビ局も飛躍的に経済的伸展を加速させる始まりの年となった。

 

つまり、僕自身も名古屋から上京して今年は「東京生活50周年」なのだ。

 

その50年が走馬燈のように浮かんできた。放送研究部の大先輩は、今里久雄、業界ではQさんで通っている。就活の時期、このQさんという人に巡り会っていなかったらば、今の僕はいないといっても過言ではない。媒酌人にもなって頂いた。そのQさんの隣に座っていること、そして、このコンサートの発案者が、これまた部の後輩、岩城明男君だというに、つくづく強い縁を感じた。この二人の間から、僕の生活と広告と音楽が語れるからだ。

僕の音楽との関わりは、母校のクライン・メモリアルチャペルで歌ってきた賛美歌だった。

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「放送研究部だからって、な、ハギ、放送局でなくてもいいじゃあないか」

「ええ、何処の局もアナウンサー以外、制作関係はバイトからでないと採用は難しいと言われています。といって、ウチは伊勢湾台風の罹災者だから、就職浪人にはなれないんですよ」

「広告会社はどうだ。揺りかごから墓場まで、世の中すべての企業が相手になる仕事は。生活感溢れる仕事だぞ。新聞記者になりたいだとか、局の報道部に勤めたいだとか、言っていたが、広告代理店っていうのは、だな、生活商品の報道だ。いや、新聞社やテレビ局を支えながら、しかも、仕事は、ジャーナリスティックな感度を要求されるんだぞ」

 

 青学の後夜祭の日、新宿の「ター坊」というスタンドバーで、Qさんから就職のアドヴァイスを受けたことで、「広告論」の上岡一嘉教授ゼミに入った。教授は、日本に「マーケティング」という概念を植え付けた一人である。後年、白鴎大学を創設し、初代総長になった。

Qさんは、博報堂のラジオCMのプランナーだった。それまでラジ関(当時は横浜野毛山)やフジテレ、LFにいる先輩を訪ねていたが、方向転換した。それをきっかけに、まだ薄いページでしかなかった業界雑誌「宣伝会議」と「ブレーン」を買い始めた。博報堂主催のラジオテレビ企画者養成講座の受講生にもなった。早稲田の演劇博物館に聴きに出掛けた。2週間に亘る講座のため、大学の授業は、いわゆる代返を頼んで高田馬場まで通い続けた。当時の講義ノートは、今も残してある。米国帰りの瀬木庸介ジュニアの講義に聴き入ったものだ。


 

 3年に入ると、Qさんが博報堂でバイトをしないかと誘ってくれた。日立製作所の生CMを手伝ってみろ、そうすれば、業務がみえてくるぞと言われた。博報堂が、NHKの看板アナ、高橋圭三を独立させて創る最初の番組だった。この日本版エド・サリバン・ショーは、日本初の2時間番組のスタートでもあったし、日本初のフリーアナウンサー誕生にもなった。このため、TBSがジャイアンツスタジオ(通称Gスタ)を建造した。番組アシスタントには、松任谷国子さんが決まった。放研の制作作業と日立の愛宕ビル及び倉庫と赤坂TBSと神田錦町の博報堂をかけずり回る毎日だった。

 

 P1050106 当時は入社試験には、指定校しか受けられなかった。Qさんの社内への働きかけで青学も指定校となり、明治大学での筆記試験、面接を経て博報堂に入社できた。青学から入社した7人の中に大西泰輔がいる。ソニー・レコード設立時に転社し、ビリー・ジョエルやボズ・スキャッグスらを日本に紹介することになった洋楽部長だ。彼の部は、オラトリオ・ソサイエティ合唱団員だった。因みに中高での僕はコーラス部員で、学院行事では聖歌隊にもなっていた。片や「Tai Onishi」は、世界のアーティストに知られる大きな存在だ。退社後は、ソニー名誉会長が設立した軽井沢大賀ホールの初代支配人となった。しかも、この記念コンサートで演奏するピアニスト、中村紘子が1968年にCBSソニーの専属アーティスト第1号となって初めてレコーディングをした時の初代プロデューサーでもあるのだ。


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 先輩のQさんは、あのサウンド・ロゴ「スカッとさわやか、コカコーラ」を創り、広告業界がラジオ全盛の時代に、広告賞を総ナメにした人だ。僕とQさんとの音楽関係でいえば、宮崎尚志、いずみ・たく、小野崎孝輔、小林亜星等々の作曲家の仕事場に僕を連れ歩いてくれた。また、Qさんの友人であるCM音楽プロデューサー横倉義純さんとは、大学3年当時から親しくして頂き、飛行館スタジオなどで音楽の現場を教え込まれた。赤坂のKRC(国際ラジオセンター)スタジオでは、安田章子(後の由紀さおり)やシンガーズ・スリーの伊集加代子さんで、毎晩のようにコマソンの音録りをしていた時代である。横倉さんがJAMの2代目理事長の頃だろうか、新設する音響ハウスのミクサーとして就く人たちに広告人として研修講師をやってくれと頼まれたりもした。こうした恵まれた環境で仕込まれたせいか、僕も後にアメリカのMTVへアーティストを送り出す役を担うことになった。アーティストたちは、豪州から秘かに来日した。ワーナーレコードの林さんとの仕事だった。2曲のプロモーション・ビデオを制作してMTVで流れた。「オリジナル・シン」は、いきなり全米で37位にランキングされた。


 これは、日本人が制作した初のMTVプロモ・ビデオとなった。彼らの名前は、「INXS」だった。メイキング・ビデオは、年末の特番で全豪に放送された。彼らの来日公演を僕は約束した。FROM A(ustralia)に喩えて、リクルート・フロムAの音楽イベントとして、芝郵便貯金ホールで日本デビューとなった。


 世界に活躍した彼らはその後、シドニー・オリンピックのフィナーレで歌い上げた。

 そうそう、日本のブレンダー・リー、弘田美枝子のデビューは、青学祭の放研主催のイベントだった。MCはE・H・エリック。音楽プロデューサーは、大先輩の井村文彦さん(当時、LFディレクター。現在はJ・WAVE会長を経て相談役)。舞台監督は僕だった。


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P1030819 後輩の岩城明男君は、愛知の隣県、三重の志摩半島出身で、真珠の養殖業の長男坊。下宿は最澄時と三軒茶屋で、互いに歩ける至近距離にいた。3年で彼も僕と同じゼミに入り、就職も僕の影響で、日本橋の広告会社に入った。いわゆる「腐れ縁」という関係はそれからも更に重なっていくことになる。

 

 僕は、1969年秋、名古屋で結婚式を挙げた。名古屋支社で同僚だったカメラマンが挙式の写真を撮ってくれた。木之下晃さん、通称キノサン。畳一畳分の写真ボードが東京に急送され、2回目の披露宴会場でディスプレイの役をしてくれた。

 

このキノサンが、後年、クラシック音楽写真の世界で最高峰と称賛される日本人カメラマンとなった。NHKのドキュメンタリー番組「カメラで音楽を撃て」200711月 BSハイビジョン)である。彼は、国内の音楽ホールに、次々とカメラの窓を造っていった。キノサンの姿を長期に亘って追いかけたプロデューサーが、なんと、名古屋学院時代の仲間である村田亨、テレビマンユニオン専務なのだから驚く。

 

 東京会場に選定したのは、工事中の東急ホテル赤坂。オープン3組目というメモリアルな披露宴となった。司会は、放研の同期、後の「鬼平犯科帖」の名プロデューサー、能村庸一君。メモリアルは、それだけではなかった。作曲家のいずみたくさんからコンボバンドをプレゼントされ、さらにギターで弾き語りをしてくれたのは、荒木とよひさ、アラトヨだった。未だ「四季の歌」のアラトヨではなかった。その後に、彼の母校、日芸で22年間も教壇に立つとは、この時、予想だにしなかった。



 アラトヨとの出遭いは、虎ノ門にあったグラモフォン・レコード(後のポリドール)のスタジオだった。放研の先輩が作った音楽制作会社に参加した時だった。青学のクラスメイトに渡辺栄吉、エイチャンがいた。大学では、「ブルーノーツ」というコンボバンドのキーボード担当だった。エイチャンもヤマハを受けたらしいが、グラモフォンに入社していた。エイチャンとは、ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」、キーヨの「また会う日まで」などのヒットメーカーとなった筒美京平である。

 

 その日は、グラモフォンのスタジオでは、エイチャンにアレンジして貰ったアラトヨの曲を録音する日だった。気が合った。互いにスキーが好きだったことにも因る。僕は「スカブラ」という都連のスキークラブに入っていたし、彼はゲレンデ・パトのバイトで足を骨折した。市ヶ谷の彼のマンションに出掛けて、あれこれ曲を作ったりしていた。二人で新興楽譜出版の澤田さんへ売り込みに出掛けたこともあった。面談の先客は、まだ若かった浜圭介だった。3つ年上の僕をアラトヨは「オヤブン!」と呼んでくれた時代だった。彼がCM音楽の世界に入りたいといい、日芸の先輩に当たる「トップギャラン」を率いていた森田公一に自ら接触していった。荒木組や伝書鳩のグループで、小室やたくろうの前座を歌ったりした時期もあった。CMソングに数年間関わった後、やがて活動の舞台をレコード業界へと移し、テレサ・テンを押し上げるヒットメーカーになっていく。6月2日(土)のテレ朝番組「テレサ・テン物語」を支えた作詞家である。日芸の映画学科だった彼は、僕の仲間、小林千恵と映画作りに入り、念願の映画初監督で日本映画批評家大賞監督賞も獲った。テレビ画面で白髪のアラトヨの姿を見る度に、我々も随分と歳を取ったものだなあと来し方を妻と懐かしむ。



 日芸の教え子、渡辺秀文君、ナベがCM音楽制作会社、ミスター・ミュージックに入った。ピカピカの~イチネンセイッ!を作曲したまぶたひとみこと、吉江一男君が社長をしている会社だ。ナベは、フロムAからスーパードライまで市場導入の重要な音楽をディレクションしてくれた。名古屋支社に転勤した僕が、メナードのCMソングにテレサ・テンをリクエストした。作詞にはアラトヨも候補に挙げたが、決まったのはZARDの坂井泉水さんの詞。作曲は織田哲郎。広告音楽の世界でなければ、実現できそうにない組み合わせとなった。結婚式でも歌ってもらいたいという狙いでタイトルは「あなたと共に生きてゆく」だった。台湾へレコーディングに出向いたのはナベだった。

そして、奇しくも、それがテレサ・テン最後の曲になったのだ。アラトヨの蔭で、僕とテレサ・テンとの接点である。いまも僕の好きな歌のひとつだ。

 「CMに既成曲を使わせてほしいと頼んでくる広告会社はいても、僕に書き下ろしてくれと頼んできたのは、ハギさんが初めですよ」河島英五さんは、こういって書いてくれたが、ナベの凄いところは、そんあものじゃあない、桁違いだ。なにしろ、あのスティービー・ワンダーにオリジナルを書かせて、しかも更に細かい注文まで納得させたのだがら。キリンの缶コーヒー、「ファイア」の曲だった。

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話を戻そう。アラトヨの弾き語りを聴いた翌々日、新婚旅行は、合歓の郷に向かった。父親の車、ブルーバードを走らせた。そこは、志摩半島にヤマハの川上源一郎社長が作ろうとしていた日本初の本格的なリゾート・アイランドである。1969年、当時は、まだ報道関係者以外の利用はできなかった。それを、なんとかメモリアルな宿泊先として叶えて頂きたいと、銀座のヤマハに日参して許可を得たのだ。海の対、山の対という名のレストランには、外人数名の宿泊客が滞在していたに過ぎなかった。

広告会社の営業マンとなった岩城君のクライアントはヤマハだったことは、後々に知ることになった。あのヤマハ・ポプコンのイベントをこなす一方で、川上源一郎社長との海外出張が25回を超えるほどの信頼感を築いていった。その彼からある日、「ヤマハ音楽学院で広告音楽を講義して欲しい」と要請された。

 

目黒大鳥神社横にあった学院に出向いた。酒井教育部長(後の専務理事)と、ニックネームがライオンと呼ばれている割には柔和な山本透さんと、カリキュラムの打ち合わせをした。受講生たちは、ジュニア・オリジナル・コンサート出身で、絶対音感の鋭い耳を持った、若くて優秀なエレクトーン奏者たちだった。

彼女たちは、未だ十代後半の海江田(後に川崎)ろまんさん、土井(後に松居)慶子さん、田中(後に鎌田裕美子さん、それに大島ミチルさんだった。大島さん以外は、キーボードユニットの『COSMOS』を結成した時代もあった。そのときのディスクは、未だ我が家にあるはずだ。

 

大島ミチルさんは、1977年のエレクトーン・フェスティバル全日本大会で2位になり、「インターナショナル・エレクトーン・フェスティバル」ではグランプリを獲っている。あの大河ドラマ「天地人」のダイナミックな旋律こそは彼女の手になるものであり、今や番組音楽、CMで大活躍している作曲家であり、松居慶子さんは、全米で知られるジャズピアニストになっている。

 

岩城君がその後、ホンダF1のイベントをこなすことになるのだが、片山敬済の影響か、伊丹十三監督が中年ライダーとしてツーリングに凝るようになった。当時、僕のクライアントであった薩摩酒造の本坊松実常務が、伊丹さんの「続・女たちよ」の文中に焼酎「白波」を見つけ、CM出演を熱望してされていた。そこで岩城君の仲立ちを経て、監督とCM出演交渉に入ったことがある。日本橋の広告会社の社員が神田の広告会社の社員を助けてくれるという佳き時代だった。味の素マヨネーズとのCM契約上、味の素系三楽がバッティングするということで、不成立になった経緯がある。

岩城君は、東京フォーラムのオープンイベントを86企画もやるなど、多くの実績を持つイベントプロデューサーとなっていった。そして、広告会社を去る最後に頭に浮かんだのが、このご成婚記念コンサートだったという。昭和49年の天皇陛下写真展を高島屋で催したのが彼の勤めた会社だとするなら、昭和に継ぐ平成の記念コンサートを、彼が万雷の拍手で締めくくれたことは、この上もない名誉なこととなった。


 

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チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾いた神尾真由子さんのストラディヴァリウスは、力強くて透き通る見事な音色を聴かせた。圧巻だった。また、中村紘子さんの弾いたピアノは、ヤマハの最高レベルのピアノが用意されていたと聞く。ヤマハの社長もホールで一段と大きな拍手したに相違ないが、それは岩城君への感謝も込められていたことだろう。天皇皇后ご臨席賜ったという予期せぬ、最大にして最高の、岩城明男最終章にふさわしい夜となった。当然ながら、この記念すべきコンサートには、計りきれないほどの多くのプロジェクトスタッフ方々のご尽力と並々ならぬ大きなエネルギーの結晶があったからに他ならない。

 

 

P1030834 「青学90周年に日比谷でN響を、そしてご成婚50周年にNHKホールでN響。やんちゃだった岩城も、どう、ハギさん、やったでしょっ?!」

翌日、学生時代と変わらない、悪戯っぽい声が受話器の向こうで弾んでいた。

 

 

書き記しておきたかったのは、Qさんと岩城明男君と僕、青学と放送研究部の周りにあった音楽史の断片である。


・・・・・・我が家に関しては、

      長男が学習院の中等科高等科ではブラスバンドでトロンボーンを吹いていた。

・・・・・・そして、次男の子供が、最近、鍵盤の音に興味を示しはじめたようだ。

 

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2008年11月14日 (金)

ちょっと浅草まで散歩に

せっかく上野に住んでいるのだから、足腰に問題がないうちに江戸浅草界隈を歩き回ろうと思い始めた。

 

遅い昼食を終えてから、浅草まで散歩に出た。地下鉄3区間である。合羽橋商店街を抜けて、ビューホテルの裏から六区ブロードウエイに入る。P1080197P1080200 P1080289 遊園地「花やしき」の花やしき通りから木馬亭(根岸吉太郎監督の実家)に戻り、奥山お参り道を浅草寺に向かう。ウイークデーながら、かなりの人出だ。皆さん、よく知っていなさる。

「花やしき」は、江戸時代に造園師によって牡丹と菊細工を見せた花園で、日本初の”元祖ゆうえんち”でもある。

 

徳川時代に建てられた浅草寺本堂は空襲で焼けたのだが、再建された本堂が今年、50周年を迎えた。

P1080187P1080217浅草大観光祭」と銘打ったイベントで、本堂西側の1000坪の敷地で江戸の町並みが再現されたのが「浅草奥山風景」だ。大江戸庶民遊楽の地では、大道芸や見せ物小屋があったようだ。

  大木戸や辻番所、それに火見櫓などが、太秦のセットのように造られていた。江戸の伝統職人の店が二筋の路地に所狭しと並べて、気分は江戸時代。茶屋で甘味を口にする外国人、見せ物小屋に誘い込まれる親子、大声でまくし立てる啖呵口上をのけぞりながら笑っている老人達。

 

P1080233 P1080232 P1080244 背中を押されながら歩いていると、年の瀬が迫っているかのような錯覚をする。

観世流の筆捌きも祭り絵師の細かい筆の動き、浮世絵の版刷りなど目の当たりにすると、江戸職人の後継者に思わず拍手したくなるほどだ。リタイアしたであろう夫婦が長い間覗き込んで動かなかった。

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西境内の銭塚弁財天の橋を渡ると、六角堂の近くに、いくつもの灯籠が立ち並んでいた。役者の似顔絵が描かれてある。中村獅童、中村七之助、市川門之助とある。歌舞伎発祥の地とも言える猿若町に歌舞伎芝居が日本橋から転地してきた。

P1080208 P1080241 P1080250 いま、浅草寺本堂裏広場に「平成中村座」が出来ている。「キャッツ」の公演など劇団四季が短期で建ち上げて劇場小屋と同じだ。2ヶ月間の期限付き特別興行で、このプラチナチケットは、とても手に入りにくい。近くに住んでいるからと気軽に考えていて、いつも見逃す。中村勘三郎が「法界坊」を演じている。因みに、2階の「お大尽席」は35000円である。ガードマンに当日券について訊いてみた。「朝6時から並んでいるが枚数が少ないからねえ、長い列が出来ていても入れない人は気の毒だよ」と。東銀座の歌舞伎座も耐震強度の問題で、来春には一旦解体し、建て替えで閉館。2013年に再開場されるまでは、新橋演舞場などに舞台は代わりそう。

 

P1080270P1080199 芝居街だったという浅草。西参道から六区のブロードウエイに出る。幅の広いこの通りは、今でこそ人通りも少ないが、僕が上京した頃には、何本も派手な幟が立って、呼び込みの声が響いていた。
この時期、実は「下町コメディ映画祭」が始まっていたのだ。知らなかった。


元来、この六区は榎本健一が「浅草オペラ」で客を集めたところだし、あの浅草の活気を取り戻そうとした伴淳三郎は浅草サンバカーニバルを提案した。世界の北野武監督は、フランス座の芸人であった。大勝館は工事中だが、P1080277 P108018821 東洋館は「梅田花月」とまではいかないが、それでも開演前には行列が出来る。言問い通りの雷起こしのゴロゴロ会館では、よしもとの芸人が笑わせている。上野の鈴本演芸場だけでなく、この演芸ホールにも一度入ってみようと思う。ここはまさに日本の“ブロードウエイ”である。

 

P1080309今回の映画祭ではゲストが人力車パレードで雷門前まで乗り付けて、仲見世通りを浅草寺本堂まで敷いたレッドカーペットの上を歩いたとか。台東ケーブルテレビでは中継していたかも知れない。

 

P1080276 禁酒しているので残念だが、通称「ホッピー通り」を横目で見ながら、夕闇迫る時刻までぶらついて、下谷神社まで帰ってきた。9223歩だった。

忘れていた昔があちこちにある。中学生時代の日本の風景がある。歩きながら、昔を思い出す。あの「地井散歩」ではないが、こうした散歩が僕のリラクゼ―ションの方法だ。根津に住んでいたときも、歩き尽くさないままに転居してしまった気がしている。山手線の外側も、まだまだ、歩きたい江戸エリアがありすぎる。

 

 

「浅草奥山風景」は、今月の25日まで催されているから、是非、お出かけください。江戸東京博物館で開催されていた「浅草今昔展」は、16日で終わった。

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2008年7月21日 (月)

東京の名古屋学院生

 時の経つのは早いものだ。ついこの間、仲間に会ったと思ったのだが、3ヶ月が経ってしまった。

 東京に住んでいる名古屋学院時代の親友たちで集まるから、「なと会」。

 春季会場は、神楽坂の奥座敷と言える和風のレストランだった。幹事役の岩尾信正君と下見をした折りに珈琲を飲んだのが、牛込堀の「東京水上倶楽部」のキャナルカフェだった。

 夜桜でも眺めながら、水辺で珈琲と最後に案内するつもりが、できないままに終わった。だから、夏季の会場は、海風に吹かれながらビールを飲もうと、天王洲のレストランを頭に浮かべた。

「なと会」のメンバーは、二人が他界し、今では12名ほどになってしまった。

 神学校で進学校の中学時代。いつも固まっていた仲間。廊下に張り出される巻紙の成績順でライバルとなった勉強仲間だ。中学3年では全校50番 までが入れるDクラス。同じく高校に進級して、それがFクラスとなり、高2では大学受験の理科系と文化系コースにクラスが分かれた。高校の教科書はこの年 で修了。高3では専ら受験問題に取り組む。再び公立系と私立系に分かれる。僕は文化系の私立コースだった。この仲間の殆どは公立系受検組だった。途中、東京の高校へ転校していった者は、上智大と国際基督教大学に進んだ。それが、再び東京に寄り集まった。50歳を越えても、彼らとは中学生のままである。どんな経緯で結婚相手を見つけたのかという話題は全く出ない。子供の話も滅多に出ない。頭髪は白くなったり、薄くなったりだが、気持ちは日曜教会に通っていたりした詰め襟の学生服姿のままである。

  

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夏季の幹事は、逗子から来る増田武彦君。

天王洲アイル駅を出て、運河に面したウッド・プロムナードが待ち合わせ場所になった。

大崎から臨海線で降りる。ビル群の雁行に組み込まれた渡り廊下を運河に向かった。


 

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 080701_18281_3   未だ予定の時刻30分も早かったのに、既に初老の男たちが集まっていた。初めての場所だからと早く来たのだとそれぞれが言う。レストランへ誘導する。

こんな場所が都内にあるとは知らなかったよ、と驚きながら喜んでくれる。予期した通りの反応だった。

 運河に面したこのミニブリュワリーは、倉庫を改造したもので、オーナーは寺田倉庫だ。1997年にオープンしたのであるから、既に10年余りが経つ。改装した時に、シェフも入れ替えたという。ウオーターフロントのレストランとしては、日本離れした雰囲気を創っている。天井の高さも12mある。サンフランシスコのユニオンストリートのレストランにでも入ったようだ。いや、LAのマリナデルレイにもありそうな感じだ。外人客が多いので余計にそう思わせる。幸いに今日はロケ隊の姿はないようだ。4月に予約しておいたので、テラスのテーブル席に座ることができた。


080701_18311 080701_1832  ビアレストランの名前は、「T・Y HARBOR BREWERY」。
Harbor
というからには、船が係留されるのだろうが、話によると、オーナーのクルーザーが接岸されるのだそうだ。「T・Y」のTは天王洲、Yはヨットかと思ったら、これも、どうやら、寺田倉庫先代社長の寺田保之介氏のイニシャルのようだ。

 オーダーは既に幹事が予約済み。飲み物は当然、ビール。ここでは、醸造しているビールを3種類テースト出来るのだが、ピッチャーで頼んだのは、その内のペールエールらしい。ロンドンパブでお馴染みの味だ。ハーブやスパイスを効かせたビールには、関心はなかったようで、幹事役は急き立てられるようにグラスに注ぐ。

 ビール市場を活性化する先鞭をつけたドライ戦争。それ以降「DRY]と名のついたビールが世界に急増した。P1070475 飲食店では、ビール愛飲者が自分のブランドを口にし始めた。尤も、ピルスナータイプの味に慣れた日本人が、その後、市場争奪戦 を繰り返すうちに、酒税法の対抗策として、発泡酒という日本的なビールを産んでしまった。その上、ビール風飲料まで発売されるに至っては、多くのビール愛 飲者から本来のビール味を遠ざけてしまったと言える。「ビールと間違えちゃいました」というサッポロ「麦とホップ」に至っては、メーカー自らが、間違えさ せるビールもどきを発売していますと受け取られても仕方がない。

 最低製造数量基準が2000klから60klに 緩和されたことで、小規模醸造のビールが飲めるようになった。ミニブリュワリーと言われるそれは、「地ビール」として、全国各地に地域密着型の花形として 一時ブームになっていたのだが、大手メーカーの低価格商品の攻勢に抗しきれず、今は話題になることも少なくなった。

 小規模ロットのため、賞味期限や価格が 販売にブレーキがかかる。経営も難しい。東日本ハウス傘下の「銀河高原ビール」も岩手から阿蘇まで市場を拡げるかに思えたが、息切れた。

 名古屋でもポッ カ・コーポレーション傘下のミニブリュワリー、今池にあった「トライアングルブルー」が消えた。伏見には、「ねのひ」の盛田酒造が経営するミニブリュワ リーがある。盛田酒造は、ソニーの創業者・盛田昭夫の実家としてよく知られている。名古屋在任中は「ランドビア・サーカス」にはよく行った。いまは、赤味 噌ラガーが飲めるようだ。同じ酒造メーカーでも鹿児島の薩摩酒造には、薩摩芋で創った発泡酒がある。これが工場長自慢の味で、なかなかに美味しかった。日 本初の地ビールと言われるエチゴビール、それにスワンビールは、新潟を訪れたとき足を伸ばした。御殿場高原ビールは、昔は機械栓のボトルが良かった。日本 で最初のビールか?と言われる品川ビールは、秋田県で最初の地ビールを造った田沢湖ビールが再現してくれた。P1070477

 

 当然のことだが、造られているその場で飲むビールは一番鮮度が高く、美味い。米国には、そのマイクロ・ブリュワリーが大学内にあったりするらしいが、豪州ゴールド・コーストにあるリゾート、サンクチュアリーコーブではゴルフを終えた後にそれが飲める。  僕は訪れた土地のビールを極力、飲んでその空ボトルを持ち帰る。

080701_18321  今夜の「T・Yハーバーブリュワリー」では、エールビールを飲んだ。上面発酵ビール。酵母を常温で短時間に発酵させた、ちょっとフルーティなビール。発酵中に酵母が浮き上がるからだが、上面醗酵のほうが醸造は容易である。

 ピッチャーのビールは、2杯目が終わった。そして、カリフォルニアワインに変わっていった。

 

 母校の昔話が出た。長塀町の校舎を金城学院に売却して、当時は名古屋市の端になる地に中高が移転した。新しい大幸町の校地は2万坪。兵器敞跡だったため、校舎の後ろには溜池のような自然のプールがあった。そこでザリガニを取った。道路を隔てた公設市場に先生の目を盗んでうどんを食 べに行った。校地の角にある芝生を敷いた宣教師の家で、英会話の授業があったこと。斜向かいの学芸大附属高校には、我々男子校にはいない女子高生がいたこと。池田晃一が剣道部員だったこと。そして彼が夢中になるスポーツがラグビーからゴルフになっていったなどなど。

 この仲間でゴルフに行くことが始まったのは、池田の音頭だった。中でも、根本圭造は、我々のゴルフの先生格だ。 「ダンロップフレンドリーゴルフ関東地区大会」で2003年も2007年も優勝しているし、「宍戸ヒルズ」のメンバーとしても好スコアを出している。今年も既に45ラウンドを済ませたことに、我々は驚かされた。

 080701_18322そして、米国横断の旅から帰ったばかりの西野昭男の土産話になった。シアトルのニンテンドー・オブ・アメリカの荒川社長の案内で、セーフコ・フィールドでイチローと撮ったという写真を見せてくれた。残念なことに、少し手ブレしていた。初耳だったのは、ワシントン州レドモンドのニンテンドー・オブ・アメリカの敷地内に、デジペン工科大学というゲーム大学があることだった。300人の学生枠に3000人の応募があったそうだ。

 菊池寛賞を獲った村田亨は、読売テレビ開局50年記念番組で、8月に「日中戦争秘話 二つの祖国を持つ女諜報員~鄭蘋如(テンピンルウ)の真実~」を、3月に「松方コレクション」をプロデュースすると予告した。岩尾巖は、東西奔走して経営コンサルをする傍ら、帆船日本丸男声合唱団で歌っている。今日は欠席したが、岩堀はバドミントンで全日本シニアの大会に出る腕前だし、金谷光博は合気道の師範である。68歳、羨ましいほどに元気である。

080701_2003 運河の先を赤い提灯が揺れていく。屋形船である。それで一気にLAから日本に引き戻された。

 帰りは、品川駅の裏までみんなでぶらぶらと歩いた。この男たちの集まりは、同窓会紙「敬愛」には載らないでいる。

 次回幹事は西野昭男に決まった。東京の名古屋学院68歳たちを、冬季は何処の街に連れ出してくれるのだろうか。


 

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2008年6月16日 (月)

我々の錦町シンボルが消える

 久しぶりに神田錦町を歩く機会があった。

 神田駅から神田警察を通り過ぎ、6階建ての新校舎になった正則学園を仰ぎ見る。僕の住んでいる斜め前の下谷小学校に、03年から急に高校生の群れが現れた。
建て替え工事のために、正則学園が移転してきていたのだ。都会に建つ学校らしく、ビジネスオフィスと見間違うばかりのビルになっていた。
「屋上が運動場ですよ」。立ち止まっていたら、通りがかりの人が教えてくれた。

 

 オーム社の交差点を渡ると、そこには、歴史を留めた4階建ての姿がある。
P1000041 高層ビルに変貌している中でひときわ古色蒼然とした姿だが、顔つきは威風堂々と建っていた。創業1895年(明治28年)。その6年後に、電報通信社、つまり電通が立ち上がる。

 右上の鉄塔の部屋で、半年間マル秘の仕事をしていた。会社の中でも限られた者しか知らない秘密の仕事場だった。
電波媒体のチーフは市川実、サブが石川曄児。印刷媒体のチーフが星谷明(退社後、レマン設立)、サブが島倉孝次。錚々たる先輩連に囲まれた。花王石鹸が歯磨きという新しい市場に進出する戦略を練った場所だ。

 

 今年で創業113年目を迎えた。この間、丸の内仲通り、東京駅前、田町を経て、
今春は赤坂に移転した。
 会社のマークは、三色旗で、慶應義塾のOBマークだとか、全国理容協会のマークだと揶揄された。尤もその後に決められた社章では、銀座や六本木の店で、「Hな人たちだ」と言われた。この頃は、「ニシキ」とか、「ツキジ」とかの隠語は消えていた。なぜならば、ライバル社も実戦部隊は移転していたからだ。

 

P1000074_2 P1000073_2  僕は1963年、錦町のそのデコラティブな建物に通勤しはじめた。それまで通学していた世田谷最澄寺から文京区本郷追分に居を移した。飲んでタクシーに乗ると、聞き違いをされて新宿の追分方面に何度も連れて行かれた。

 会社の横にある「神田錦町」のバス停から、「本郷追分」まで156分で帰れる。至極、近距離からの通勤だったことがある意味ではマイナスでもあった。中央線沿線派と湘南沿線派という言葉を後で知ることとなったのだ。

 
 それは兎も角、社員通用口は重役車両の駐車している裏口からであった。
遅刻となる時間には、守衛室の前に葉書大の用紙が置かれた。サインをする名前の脇に、大きな赤いゴム判が押されてあった。『電通に追いつけ、電通を追い越せ』という文字だった。まだ、ハクホウドウが神田のサンセイドウと間違われていた時代に、である。

  総合企画局ラテ企画制作部に配属されたのだが、希望はPR局員だった。アンダーグラウンドのジャーナリストになりたかった。ところが、大学は放送研究学部ラジオ制作学科?卒業生だったためか、これからのテレビCMをやってみろと上から言われた。今で言うところのクリエィティブセクションは、長谷川ビル別館にアート局があった。こうして、別のクリエィティブ哲学がそれぞれに進んで、やがて合流点を見いだしていった。


 今年、この社屋が取り壊される。我々新入社員、想い出の城が消える。年に一度の同期会が、すずらん通りの店で開かれることになった。少し早く着いて、懐かしい時を戻してみようと、浦島太郎の気分で、周辺を歩き回った。

 

P1000070P1000038  本社の横の喫茶店「シャンボール」は閉じていた。もしかすると、既に廃業しているのかもしれない。ここは、清浦先輩に毎朝連れ出されて行った店で、新入社員の僕にとっては教室だった。ノートを取りながら先輩から話を聴く場所だった。しばらくは珈琲を味わう余裕もなかった。「イトウ屋」の珈琲は、京都での「イノダ」の珈琲に出掛ける気分にも似て、美味い珈琲をゆっくり味わう場所だった。 

P1000062  三省堂の横道を曲がると、角は「兵六」。ここでの芋焼酎の臭みが馴染めず、先輩に誘われてもなんとか言い訳を考えて断っていた。後年、その芋焼酎の本流、鹿児島薩摩酒造の「白波」を担当するとは、想像も出来なかった。しかも、東京で最初の焼酎バーを創ることなど。この赤提灯を前にして、本坊松実社長の顔が浮かんだ。

P1000063 P1000064  小路を入ると、「ミロンガ」が、その先には「ラドリオ」の灯りが今もあった。
「ラドリオ」は、3年目の頃から、石橋進、荒井春代、佐久間敬一郎という先輩たちとの午前企画会議の定例会場であった。ここのウインナーコーヒーは何処よりも美味い味がした。スズラン道りに出れば、三省堂も東京堂も、自分たちの図書館となった。

 行方不明になった石橋進先輩を捜すために、随分と神田駿河台下のパチンコ店を走り回った。多くは「人生劇場」で見つかった。

 

P1000058 昼食は、社食のパインルーム(松屋が経営していた)が混んでいると、湯麺、焼きそばに独特の味がした「神田餃子屋」、親子で揚げていたとんかつ専門店「羅生門」や、 ボリュームたっぷりの天麩羅「あまみ」に通った。「羅生門」は既に跡形もなかった。少し贅沢になると、肉卸店直営の「いぬ居」の牛弁当というお重。

 更に贅沢な夕食は、バラライカの音に誘われて地下に降りるロシア料理の「バラライカ」今はビルの面影すらなくなっていた。

 

 忘れられないのは、パチンコ店の裏道に10人も座れば、外で並んで待つという「キッチン・ジロー」マスターは小林二郎さん。奥さんやバイトの子が出前を担当し、ジローさんが両手でハンバーグを叩き、ジョーさん(城の内さん?)が絶妙のカレーを創ってくれて食べさせてくれた。

 あるとき、僕がジローさんに言った。
「ジローさん、客はね、バットから取りだしたハンバーグのネタを秤にかける時、
案外じっと見ているものだよ。オープンキッチンのいいところはね、いま、自分のオーダーしたものを作ってくれているんだなと判ると、ツバが出てくるほど嬉しいんだ。で、そのときさ、ちょっとした演技をしてほしいな」

P1000052 「演技?」「そう、演技。アバウトで掴み取って秤にかける時さ、ちょっとそれにもう一度、量を足すのさ。足したら量らないの。それが、客の目には嬉しいのだよね」

 そんなやりとりを何度かしている内に、客の喜ぶメニューをデザインしてくれないかとなった。当時は、ワープロもパソコンもない時代。書類はタイプ室に発注しなければ、打って貰えない。デュプロマという小型の謄写版のようなものしかなかった。それに、丸文字に近い僕の手書きで、こだわり食材の産地説明から、料理法、カロリーまで示すスタイルを紙にした。それが客の評判になった。マスターは喜んでくれた。

 1年後、僕は結婚することになった。式に出るよと言ってくれた。名古屋で結婚式をし、東京で披露宴となった。ところがジローさんは、人手の少ない店を休めず、欠席となった。あれから、40年弱経った今、自社工場を持つ外食産業のヒットチェーンの社長になっている。

P1000050 P1000051  その第一号店のあった場所は、和風の壁と木目のドアが付いた店?に様変わりしていて、キッチン・ジローは3軒先の角に移っていた。

 

 スズラン道りに出て、今日の会場、SANKOENに18時ジャストに着いたら、既に全員が座っていた。遠くは熊本からも飛んで来た。 数年で退社した同期生にもこの会は積極的に呼びかけている。都内一と評されるさぬきうどんの店主も姿を見せた。早期癌を摘出しゴルフ焼けした顔もあった。73名入社したが、残念ながら鬼籍に入った者13名である。P1000053 P1000054“病気と孫の話は禁止”という幹事の指令のもと、和気藹々話が弾んだ。会の終わりにも間に合わなかった同期生は、現役の社長だった。

  ラジオが全盛だった時代、コークとボーリングの時代、「平凡パンチ」の時代だった。今は、テレビがインターネットに座を渡す時代、Wiiでボーリングをする時代、携帯電話小説を読む時代。デジタル・チルドレンが時代を塗り替えていく。

 そして、経済成長を支えてきた年代が生活弱者にされていく時代。確実に首都圏大地震が近づいている時代。

 

 駿河台からお茶の水駅に向かう坂を歩いて、主婦の友社が消えた理由を考え、明治大学の高層建築を見て、大学が再び都心に戻って来たことを思った。

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2008年6月 8日 (日)

上野界隈に住んで、三十八年目に

 新潟から船友が上京した。「国宝 薬師寺展」本展覧会は、平城遷都1300年を記念して開催するもので、日本仏教彫刻の最高傑作のひとつとして知られる金堂の日光・月光菩薩立像(国宝)が初めて寺外に揃って出た。その上野国立博物館での公開日があと3日と迫った金曜日、思い立って上京したのだ。公開当初、3月は2時間待ちもあったらしい。暑い日には、日傘サービスまで出たとか出ないとか。最終の土、日曜日は、かなり込むことが予想されるとして、新幹線に飛び乗ったのだという。

 しばらく顔を合わせていなかったので、昼食を一緒に食べようとカミサンと上野公園口に出迎えた。

 遠来の友である。上野で食事だ。寿司は、新潟に負ける。鰻の店なら、2年前「伊豆栄」に行った。上野発祥だとされているとんかつなら、「蓬莱軒」「ぽんた」「井泉」などの老舗がある。しかし、公園口からは足が遠い。

 さて、と考えた。そうだ、豆腐料理がいい。浅草の「川風」、白山の「五右衛門」、根岸の「笹乃雪」を思い浮かべる。公園口から足が短いのは、一駅先の鶯谷駅で降りる「笹乃雪」だと決めた。ここの豆腐は、「豆富」と書く。

カミサンや子供達の通った根岸小学校の真向かいだ。

 江戸で初めての絹ごし豆腐を作って、上野東叡山に納めていたようだ。輪王寺の住職に「笹の上に積もった雪のように美しいので、笹之雪と名付けるように」と褒められたのが、ネーミングの由来という。良質だと言われる地下水が店先に流れている。涼しげだ。気温は既に31℃までに上がっていた。

「水無月や、根岸涼しき、篠(ささ)の雪」正岡子規の碑が、玄関前に立っている。

 ゆっくりと、豆腐づくしの料理を口にして、昔一緒に寄港した世界一周クルーズを懐かしんだ。

 仲間が昨夜も、にっぽん丸船上からメールをしてきた。白夜の時間にも後部デッキでゲームが始まったと書いてきたが、「エジンバラから大西洋に出たが、海は大荒れで、デッキゴルフがプレイできない」とあった。

 豆腐のアイスクリームを食べ終えた。この根岸辺りを散策することにした。

080606_13070001_2 080606_13050002  林家三平のネタ帳などが展示されている三平堂は、 金曜日には入れない。開堂しているのは、「ドーもスイません」に因んで、なんと、土曜日水曜日。そして日曜日だ。再び、来た道を戻り、今度は正岡子規庵に 向かう。カミサンは、ここの小路で小学校時代の友人にバッタリ出会う。080606_13060002家族の中ではただ一人僕だけが無関係な、そういう町なのだ。

 「日暮里駅」、「鶯谷駅」の名があるように、根岸辺りは、江戸の昔から、「日暮しの里」、「呉竹の根岸の里」として、明治大正の頃まで、「竹」と「鶯」の名所として有名で、閑静で風流な土地であったという。だから、江戸時代には、画 家・俳人、学者らが住み、江戸の文化を支えた。明治20年代には、幸田露伴、岡倉天心、森鴎外も住んだ処だ。



080606_14440001   中学の修学旅行で、初めて東京に出てきたとき、いくつかの観光コースに分かれたが、僕が選んだのは、「文学コース」だった。本郷から根津、千駄木、谷中、 団子坂など文豪ゆかりの場所を歩いた。神田錦町の会社に内定するやいなや、会社勤めの居住先を本郷中心に探し回ったものだ。独身時代は本郷追分。新婚時代 が八百屋お七で有名な駒込吉祥寺。そして上野桜木、池之端、東上野と、38年間も上野の山の周辺から離れられないでいる。

080606_13130002 080606_13090001 正岡子規も、中村不折に、「文学者や美術家にとり根岸ほどよい所はない、閑静でもあり、研究にも至便の地である根岸を離れず、根岸の土となる」と語ったらしい。中村不折は、あの新宿の「中村屋」のロゴマークを書いた書家でもある。

 子規庵には、スケッチも飾ってあった。あれが中村不折からプレゼントされた絵の具で描きはじめたという絵だったのだろう。なかなか上手いものだ。うそばには、やはり江戸時代からの「羽二重団子」の店がある。きめ細かくて羽二重のようだと賞された名物の団子屋である。

080606_13100001 080606_13090003 「根岸名物芋坂團子、賣りきれ申候の笹の雪」とか、「芋坂も団子も、月のゆかりかな」と詠んで子規もお気に入りだったようだ。漱石の『吾輩は猫である』の中にも、「羽二重団子」が出てくる。

 船友は、「羽二重団子」には行ったことがあるというので、踵を返して、凌雲橋を渡って鶯谷駅の南口から忍ヶ丘中学を抜けた。

 「忍ばずの池に対して、忍ヶ丘とはこれ如何に」カミサンが歩をゆるめながら、質問をした。

 訊くと、ここから比叡山に見立てた東叡山を眺め下ろして、京都を忍ぶことをしたという古人は、東叡山の下にある池からでは、京都を忍べなかったのだという謂われがあるらしい。

 ここで船友も蘊蓄を披露した。「都を造るとき、古から風水を頭に入れる。北東は鬼門だと言われるが、その位置に寺を配置して、気を治めるのだね。京都では、北東に比叡山延暦寺を置いた。江戸は上野に寛永寺を」なるほど、なるほど。

 上野には京都があるある。五重塔もあるし、清水観音堂もある。不忍池は琵琶湖だし、池の真ん中の弁財天は、竹生島だ。そんなことを話ながらの国立博物館の横道は、見明院、本覚院、輪王寺と、ふと京都辺りを思わせる寺道になっている。

 いやいや、僕に言わせれば、名古屋の自分にとっても、まんざら縁がないわけでもない。徳川は三河の出身でもある。ここは元々、伊賀上野の大名藤堂高虎の屋敷があり、その古里の地形に似ていたことから、「上野」と呼ぶようになったのだから。

080606_14030001 080606_14040001  

  歩き疲れたからと、国立西洋美術館のレストラン「すいれん」に入った。初めて入ったのだが、ここは、中庭が見えてとても落ち着ける場所だった。展示チケッ トなしで入れるとは、実は知らなかった。気に入った。時折、お茶をしに来るにはいいところだ。ミュージアムショップを覗いてみる。ギリシャ、イタリア、フ ランス系の美術関係書籍が、一度にここで購入できるのもいい。

 新潟からの船友、菅井荘輔さんは、帰った。造園の専門家であり、絵も彫刻も出来る人である。また、ぶらっと、上野の美術館に遊びに来るだろう。

080606_13560001 そうそう、「ダーウイン展」が最終日だった。この「ダーウイン展」、荘輔さん夫婦と06年にロンドンの大英博物館に入った時、展示されていたものだ。偶然とはいえ、あれから、2年経って、上野でそのポスターを眼にするとは思わなかった。

 おかげで、今日半日は、あらためて、根岸の里の良さを味わえた。

 海外に出ると、日本のことをあれこれ訊かれる。日本人でありながら、彼らに上手く応えられない時を多く経験する。帰国すると、日本をあらためて知りたくなる。説明できるようになりたいものだと、「日本」を勉強し直したくなる。

 今日、その気持ちが実に良く解った。「谷根千」を随分読んでいないことにも気づいた。

今度は、浅草から足を伸ばして「蔵前」辺りも歩いてみよう。

 

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2008年5月 3日 (土)

恥ずかしくも迂闊な、一瞬の過ち。

  4月28日。昨夜からビデオ編集作業に夢中で眠っていなかった。昼食を食べてから、少し横になろうと、パジャマに着替えた。

 昼食を口にしたのが13時。朝食後に飲むのを忘れた薬を飲む。船友から貰った薬箱は、7つに仕切られた釣り具用のプラスティックケース。予め1週間分を入れてある。水を用意した。ケースをひっくり返して月曜日分を掌に移し、一気に口の中に放り込み、水を飲んだ。

 

 口の中がチカッと感じた。理由が判った。

夕食後に服用する予定の1錠をプラスティックシートからハサミでご丁寧にも切り離し、曜日別区分けの底に入れたことをすっかり忘れていた。選りに選って、今日がその初日だった。つまり、朝の4錠に夜の1錠をシートのまま、口に放り込んでしまったのだ。

「しまったっ!!」咄嗟に5mほど離れた洗面所に走り込んだ。この間、ものの1分も過ぎていない。人差し指を喉に突っ込んだ。吐ければと思った。しかし、指先についてきたのは、鮮血だった。
咄嗟に頭に浮かんだこと。消化器官を上から下まで切っていくのか。直腸、大腸に擦過傷をつけたら、わざわざ自分で潰瘍になる原因を創り出してしまう。振り返って、カミサンに「キュウ…キュウ…」と言ったが、言葉になっていない。後は、手話になった。なんとか、急いで、「プラスティックケースから、口に中に錠剤と一緒に、四角いものも放り込んだ」と教える。

 

 P1070032 曜日分毎に仕切られたケースの中には、朝服用の薬4錠の他に、サプリメントのサントリー・セサミン3粒とファンケル・満点野菜5粒が混合されていて、その下に、夜用の錠剤が1錠ずつ切ったシートのまま入れてある。その1錠分のアルミシートを、12個の薬と同時に口に放り込んでしまったのだ。一片の鋭利なカミソリを飲み込んだも同然ではないか。
なんてこった!ミスった!!徹夜で朦朧としていたのだろうか。
…迂闊にも程がある!

 事故を起こした瞬間というのは、こういう気持ちが頭をよぎるんだろうな。

 

 救急車のサイレンが近くなった。着いたのだ。一目散に走り、エレベータで降りた。警察署は斜め前、消防署は、ワンブロック奥にある。タイミング良く、病院帰りだったという。

 駆け込んだものの、すぐには発車しない。血圧を測り、事と次第を訊かれる。俯いたままの僕への最初の質問は、「呼吸出来ていますか?」だった。大きく何度も頷いた。受け入れる救急病院を電話で問い合わせる作業が始まった。救急隊員が矢継ぎ早に質問をするが、喉に痛みのあるこちらは、喋れない。カミサンがすべて対応してくれた。

 

 顎を上げていたら、四角いアルミのカミソリが食堂から胃に落ちてしまうという思いがあり、首を下げたままにして、ともかく車が一時も早く走り出してくれるのをじっと待った。通院している病院である都立駒込病院を当たってくれた。耳鼻咽喉科は診察に1時間待つという。別の場所を打診する。

 順天堂病院が受け入れてくれたようだ。10分くらいで着けると救急隊員が電話を切る。有り難い。サイレンが頭の上で大きく鳴り響いた。一路、お茶の水へ向かった。

 このエリアは、病院に恵まれている。永寿、駒込、日大、三井記念、墨東、東大、順天堂、東京医科歯科大、杏林と、総合病院が近くに多い。

 

 救急隊員の引き継ぎが終わると、担当医が来るまで待たされた。パジャマ姿で車椅子に座っている姿に、行き交うナースの目が違って見えた。入院するに際し、用意周到にパジャマ姿に着替えて来るだけの余裕があったのだから、さほどの急患ではないとでも目に映ったのだろうか。眠ろうと思っていた時だったと言いたくても、今の時刻は13時を少し回った頃であるし、当人は喋れない状態である。

 この日の夜は、赤坂のバーに長男を連れて行く約束だった。延期を知らせるよう、カミサンに頼んだ。

 

 

 やがて、耳鼻咽喉科の医師が来てくれた。ひっかかっている錠剤は何だと訊かれ、戸惑う。なぜならば、最近、ジェネリックに変えていたからだ。薬の名前を素早く口に出来なかったのだ。処方箋から得た薬局のプリントを手渡す。

 苦しい喉を我慢して医師へ最初に発した言葉は「コ、ウ、ギ、デキ、マ、スカ?」だった。医師は一瞬、「抗議できますか?」と聞き違えたようで、怪訝な顔を向けた。意味を直感で読み取ったカミサンが「来週土曜には、話せるかということです。学生に講義するものですから…」

「まず見つかるか、どうかですね。レントゲンを撮りましょう」

 次に、医師はファイバースコープを鼻孔から入れて、どの位置に止まっているかを検査し始めた。

 

「見つからないですね。胃に落ちたか…昼食直後でしたよね…食べた物に遮られて見つけにくくなりますね」

と、困惑の顔をみせる。喉仏辺りのイラストを描いて此処に異物感があると訴えた。医師が立ち去った。最悪の時は、開腹手術になるかと更に不安が募る。

 

 

  救急車の中で考えたこと。誤飲は時と場所を選ばず起きるとして、もしも、今、世界一周クルーズの洋上だったら、寄港地までをどうするか、もしも、一日前だったら、孫たちとの昼食会は散々なことになっていたし、もしも、一日後だったら、熱海の山の上にいた。麓までの距離は、車で20分。救急車の到着には1時間もかかっただろう。そう考えれば、不幸中の幸いだった。

 

 レントゲンの結果、残念ながら該当する異物は発見できなかった。それから1時間後、耳鼻咽喉科から消化器科にバトンタッチされた。内視鏡診察の準備に入った。糖尿病ではないですねと念を押された。やはり糖尿病患者は手術しにくいのだ。エイズ、梅毒、C型肝炎ウイルスの有無をチェックするために採血をするという。この際だから、C型ウイルスも検査してもらおう。口内に麻酔薬を含むことになった。従来の経口挿入である。経鼻挿入では、摘出出来ないからだろう。

 いよいよ内視鏡検査の部屋に案内された。つまり、ウイルスはなかったとうことだ。1630分、口内にアタッチメントがあてがわれる。内視鏡が咽頭部を通る。横たわった位置から部分的にモニター映像が見られる。探しながらビデオスコープを前後させる。呼吸が苦しい。食道までの間で発見して貰いたいものだと願う。

 食道の気管を拡げるために、空気をかなり送り込まれた。何度かの試行の末に、「光った!これだ!」の声が出た。探せたのだ。寝ている僕も、上目遣いでなんとか画像を睨む。確かに、切った1錠分のシートの端が見えた。内面に切れた痕がある。血が見て取れる。送気送水ボタンが何度も押される。鉗子が何度もシートを挟むが、なかなか動かない。途中、鉗子の先端が曲がってしまう。やり直して再度挿入する。モニターを見ていても、もどかしい。食道内部でのぜん動運動を繰り返す中で、それは見え隠れする。

「一度、胃に落としてから挟むか」「いや、落としたら、探しにくくならないか」

「ここでなんとか、頑張ろう」こうした医師同士のやりとりを耳にして、こちらも懸命に鼻で呼吸をする。

 こうして1時間が経過した。鉗子がシートを掴んだ。内部粘膜を傷つけることなく引き上げることは難しくなった。やむをえず最小限の傷で、チューブを取りだした。

  1730分、全員が安堵の声を上げた。ナースからは「頑張りましたね、萩原さん」と声をかけられて、脱力感と眠気に襲われた。なにしろ、昨夜から一睡もしていないのだ。ツバを飲み込むと、まだ痛む。擦過傷の痛みだという。しかしながら、「飴玉で喉を詰まらせた」「餅が喉につかえた」ならまだしも、「薬で食道を切った」は、恥ずかしい。カミサンは、担当医師から現物を見せられ、手術経過の説明を受けていた。

 

 長男が病院に駆け付けてくれた。勤務先の大学を早引きしてくれたのだ。まずは、今晩約束している赤坂のバーのママに、行けないことを電話してもらった。さらに、明日、熱海で飲む約束をしていた映像テクノアカデミアのOB、M君へも電話を延期を頼んだ。こうして入院手続きの一切は、彼が済ませてくれた。都内という至近距離にいてくれることでカミサンは随分と心強かったと思う。僕も有り難かった。今に思えば、狭心症で倒れた父親にとって、東京にいた長男の距離感に口には出せない寂しさを知ることになった。最期は、家族の知らない間に心筋梗塞で逝ってしまった。通院していた上舞津の医院の待合室だった。伊勢湾台風の夜の濁流を家族を助けながら切った父親に、親不孝な息子だった。大袈裟に言えば、”生かされた”ことをこれからどう活かすかなどと、殊勝な気持ちにさせられた。

 
 点滴装置の付いた車椅子で待つこと、それから4時間余り。睡魔との戦いだった。心配させているカミサンと長男のためにも眠れなかった。入院の空きベッドを探してくれている時間だった。

 術後の経過を慎重に期したい。食道に穴が開いていると大変な手術になるからだと知る。

 

「九死に一生を得る」という言葉がある。自分は、既に運を使い果たしたのだろうかと想い巡らせた。

  東京の大学生活を始めたため、家族でただ一人、伊勢湾台風の濁流に流されなかったこと。大学時代、天候が急変したにも拘わらず、ポンコツ車で伊豆半島を縦断し、通過した橋が次々に落ちていったことを宿で知ったこと。同じく、雨上がりの夕方、多摩川土手で車が一回転したが対向車が停止してくれていて正面衝突を免れたこと。会社勤め2年目、静岡の同期生の車に同乗するはずだったが業務のためキャンセルした夜、その車が舞子の坂で正面衝突したこと。夏スキーをするため、真夜中に車で苦労して走ったガレ場の急斜面が、乗鞍登山道だったと翌朝知ったときのこと。横浜の帰り、夜、第三京浜を走行中、右側前輪のバーストで、追い越し車線上に停まってしまったこと。また、スーパードライのロケ地での出来事。グランドキャニオン近くのレイク・パウエルをボートでロケハンしたのだが、夕闇に包まれてた湖水で立ち往生していたのを捜索船に助けられたこと、翌朝は天候が一変して周辺一帯に突風が吹き荒れたこと。それに今回の誤飲。こうなると、残る運は、数えてあと1つしかないのか。…そんなことを考えていた。

 

 2130分、成形外科の病室に入ることになった。但し、3日後には入院患者が決まっているので、退院しなくてはならないと聞かされた。

 抗生物質「ペントシリン」の点滴を受けながら、爆睡した。

 P1070029

 摘出した位置は、唇から25㎝奥の食道にあった。
蛇腹のような食道の口腔はおよそ
3㎝までになるそうだが、常にぜん動運動で収縮を繰り返しながら、食物を送り下ろしているのだろう。途中で刺さっていた?シートのサイズは縦横1.5㎝の四角形だった。

 

 翌日、新聞を買いに売店を探しに階下に降りた。かつて、ここで腎生検、バイオプシをした病院である。当時、古い器具で2度腎組織の採取に失敗し、新しい器具に替えて終えた。「古い器具しかない病院でもきちんと出来なければ駄目だぞ」ベテランからの叱咤がうつぶせの僕の背中で聞こえた。若い医師の練習台にさせられたのか、という苦い経験がある。僕にとって、好感の持てない病院だった。見違えた。あの古色蒼然とした、伝統的なアーチ型の車寄せがあった威容さは消え、オープンテラスがあり、左右にはスタバとフラワーショップが入り、あたかもビジネスビルのように改装されていた。

 

080429_9 リタイーアーが、終の棲家にと都会から離れ自然に囲まれた土地を望めば、近くに大きな医療機関が望めない。介護付き高級マンションでなければ、果たして安心して暮らせないのだろうか。そう考えれば、やはり、老人には「都会還り」が相応しいのだろうか。
 美術館があり、映画館があり、大型書店があり、病院があり、観劇が出来、デパート巡りが出来る。後期高齢者医療制度が問題視されている今の日本、安心できる国が問われていることを考え合わせると、なんとも複雑な気持ちになる。

 4月28日。我々夫婦には、とても長い一日となった。申し訳ないことに、カミサンは、救急車から9時間余りの心労でバテてしまった。

 退院に際し、GWに2回、ゴルフコンペがあるが、と担当医に打診したら、即座に禁止命令を言い渡されてしまった。これまた、携帯電話で断りのメールを送った。術後の万が一に備えて、現住所に留まっていて貰いたいと釘を刺された。当分は、刺激物、ガス飲料、わけてもアルコール飲料は、2ヶ月間の厳禁となった。

 いまは、自然のまま、普通のこと、何も起きないこと、何でもないことが一番贅沢なことだと悟った。不自由なく歩けて、不自由なく握れて、不自由なく食べられることの素晴らしさをあらためて思い知らされた。080430

 ある一瞬の動作が、生命を脅かしたかも知れなかったという、これがGW直前の出来事の顛末である。

 担当医によれば、彼女の母親にも似た事が起き、その時は開腹手術で摘出したとのことだった。食道の気管に穴が開いてしまう懸念もなく、お陰様で、いまこうしてパソコンに向かっていられる。

 P1010460 P1010490 世界一周クルーズのにっぽん丸船友(日本デッキゴルフ協会メンバー)からメールが届いた。遥か中東の紅海、エジプトのサファガ港辺りを航行中である。デッキゴルフの歓声が聞こえそうだ。透析設備を載せた外国船は存在すると聞いたことはあるが、メガシップと言えども、まさか、内視鏡、胃カメラまで備えてはいないだろう。

 日本客船では、船上のイベントに餅つきがある。平均年齢70歳の船客が、つきたての餅で、あるいは飴玉で、うっかり喉が詰まるということが無いとは言えない。

 

 お陰様で、呼吸障害や言語障害の後遺症の心配もなく退院できたのは、懸命に冷静に摘出をしてくださった順天堂病院、消化器内科の島田裕慈ドクターによるファイバースコープの巧みな操作力と、細谷聡子担当医のスタッフワークによるものだ。深く感謝する次第です。

そして、これが笑い話で語れるように、後遺症のないことを祈るばかりだ。

 

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2008年4月10日 (木)

思いがけないアーティストが隣りに座る

「船旅ってな、退屈だろう?」

「来る日も来る日も、見渡すばかり、海ばかりでさ、
クック船長じゃあないが、陸地はまだか、まだかってんで、
僕なんか苛だってしまってさ、精神的に良かあないよなあ(笑)」

「まあ、ひがみじゃあないが、高級老人会の修学旅行みたいじゃあないか」

「苫小牧へ行くだけでも、家内はフェリーで酔ってしまって、ねえ」

リタイアした友人たちに、船旅に一度奥さんを連れ出してあげれば、と、水を向けても、必ずこういった会話で話がしぼんでしまう。定時に着港を義務づけられている運航船フェリーは、低気圧を避けて航路を変えることなどなかなかできないが、ロングクルーズを体験してみると、これらが、杞憂に終わる事が多い。そして「なぜ、もっと早くに乗らなかったのか」と異口同音に言い合うから不思議だ。

 案外知られていないのが、船内で催されるエンターティナ-やレクチャーをしてくれる講師の方々と、親しく語れるチャンスが多いということである。そう、どこにも出られない洋上の船というデメリットは、船客にとって予想外のメリットをもたらすのだ。互いが篭の鳥なら、その中で濃い交流が出来るというもの。

 例えば講演会で、例えば教室で、例えば演奏会場で、例えばディナーのテーブルで、そして例えば、バーの止まり木で、案外その人が気さくな人であったり、
自分がその後に影響を受ける人になったりすることを知るだろう。

Dscf3569tk最初の船旅では、講談というものを生で聴き、落語とは異にする迫力ある話術と、その物語性に引き込まれた。 失礼ながら、博覧強記の一龍齋貞心さんを知り、日本橋亭に通うようになった。噺家の古今亭菊の丞さんは、僕と近い上野界隈に住んでいることを知った。

あらたに葉子さんと知り合いになったのも船だった。国立音楽大学声楽科卒の彼女は「カフカフドゴシコ」のボーカルとして乗っていた。アメリカビルボード誌に紹介されたこともあるが、NHKの新人歌謡コンテストで優勝を逸して第2位で、惜しくも紅白歌合戦へのチケットを逃したと言いながら、昔の懐かしい日本の歌を透明な高音で歌いこなしていた。僕は、下船してから何度も彼女のライブコンサートに出掛けた。

 それから3年後、阿刀田高ご夫妻とご一緒にオーバーランドツアーに出た。
高とけいこという同じ名前の夫婦が二組いたことに妙な縁を感じながら、シエナからフィレンツェを経てモナコ港までイタリア縦断をした。

Dscf6364 5456  カナダのヴィクトリア港から日本までの航路では、これまでにないアーティストに出遭えた。立ってチェロを弾く吉川よしひろさん、トロント在住の絵本作家・イラストレーター飛鳥童さん、そして墨彩画家の王子江(おう・すこう)さんの三人だ。「ヨシ」と呼び合うほどウマがあって、何度もコンサートには出掛けているし、飛鳥さんとは家内がメール交信をしている。

 旅に出ると、公園や舗道で売っている絵を買いたくなる僕が、北京の長城に行った帰路、立ち寄った国立美術館で墨彩画を買ったことがある。毛筆で描いた洋画があった。画の中の数カ所に鮮やかな赤と緑の色を乗せていた。その絵には、鑑定書が添付されてきた。それ以来、墨彩画が気になっていた。

 その墨彩画を極めた人と言って過言ではない王さんに、船で出遭ったのだ。水墨画教室の講師としてカナダのビクトリア港から乗り込んできた。

 ある日、ドルフィンホールで王さんのメインショーが行われた。ステージ横一面に貼られた用紙に、墨をたっぷり付けた毛筆で、人物のクロッキーが描かれていく。 下絵もなしで、直接に筆を動かす。巧みな漢詩を書く柄の長い筆は、コンテのように、B4の鉛筆のように、太くも細くもなり、かなりの速さで白い用紙を埋め尽くして描かれていく。三絶(下書きせず・ハイスピード・失敗しない)というのだそうだ。洋画の基礎を徹底的に学んだことで、独特の筆致が生まれていく。

 そのデモンストレーションに唖然とした。後で訊くと、にっぽん丸の98年、00年、01年にも乗船していて、06年で4回も、世界一周クルーズの船客には知られている人だった。特に、98年の船上で描いた絵は、「黄山勝境図」として広島県の弥勒之里美術館に収蔵されているという。

 船友たちと姫路に集まったときは、姫路市中央保健センターにある30mの水墨障壁画、「過去・現在・未来」の前で記念写真を撮った。去秋には、銀座のギャラリー青羅にも出掛けた。大作を手に入れることも出来ないので、大きな美術書を買うだけだった。

 Img_0052_329歳の時、千葉の日本人が声をかけ、日本に来ることを勧められたそうだ。それ以来、千葉の茂原が第二の故郷になったと彼が言う。千葉県茂原美術館には、公開制作を経て100mの水墨障壁画「雄原大地」が収蔵されている。100m水墨障壁画は、奈良県薬師寺にも「聖煌(しょうこう)」が収められている。そしてさらに、100mの水墨画を世界で初めて常設する「王子江100m美術館」が木曽町に生まれる。この美術館には新作の3作品が描かれる。

 北京の国立中国美術館収蔵は、10m×8mの水墨作品「天地斎徳・日月同明」である。北京美術家協会会長であり、「中国当代国画家辞典」に最年少で掲載される。「(中国政府からは)中国に帰って来いと言われますが、私は日本で学びましたから、日本に永住します」と、彼を支援している方には言い切っているという。

080225_ Img0040Dscf5284 その王さんが、「上野の森美術館」全館を使って個展を開いた。現役画家では未だ3人しかいないという、極めて希な大個展となった。大作ばかり28点の一挙初公開であるから、当然ながら、NHKのテレビ画面でしか観たことのない、名作「人生楽事」が観られた。

Dscf5268 Dscf5331Dscf5320
「人生悩みも苦しみもあるが、楽しく食事が出来ることは幸せです」ということを、中国江南地方の大衆食堂での人々の表情を見ていると、和気藹々と語り合い笑いあっている声が広がってくる。暖かい湯気が提灯の光を通して
Img_0050_2伝わってくる。美術館の壁面ぎりぎりのサイズで展示された作品群は、全館を使い切るのに充分その意味があった。歩きながら見る大きさの中に、現代の絵巻物を見る思いだった。 雄大な遠近感、流れ落ちる滝のしぶきから、木々の花、ほのかな霞、水面に映る灯り、衣服の皺から一人として同じ表情のない描き込み、杯を持つ手に箸で摘んだ食材など、それが下絵なしで直に筆を入れたとはとても思えない緻密である。 これほど大きなサイズの全体構図を頭に入れて描くことが驚異であることをあらためて実感した。館内は、大きな力強い墨彩画に圧倒された歓声がふわっと、沸き上がっていた。アラスカの氷河を背にしたにっぽん丸の大作も目にしたが、我が家に飾れそうなサイズは『雨後のマンハッ タン』を描いた小振りな絵だった。

Img0055  王さんご夫妻に会えたのは、秋以来だった。相変わらず、穏やかな笑顔で迎えてくれた。東京都美術館でも、同時に「墨の位相―現代水墨画特別展」が行われていた。

 今年もにっぽん丸は世界一周クルーズに出航する。またエンタティナーや講師との新しい縁が、ネプチューン・バーから生まれることだろう。

 

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2008年3月 3日 (月)

神楽坂は どこまでも奥が深い

「次回は神楽坂にしないか?!」そう切り出したのは、僕だった。
冬季の「な・と会」の食事が終わる頃だった。

 名古屋のミッションスクール、名古屋学院の同級生が、大学や就職先こそ違うが、東京に住みついた者同士が集まり始めた。名古屋学院の東京組という意味を縮めたので、「な・と会」とした。

  小樽の大学に行った者、大阪や京都の大学に出た者。鉄鋼会社の重役になった者。製鉄会社の人事を取り仕切った者。重電の研究者になった者。外資系の会社に勤めた者。テレビ番組をプロデュースしている者、広告会社を終えた者。銀行マンだった者。車メーカーにいた者。みなそれぞれ、大学受験の結果、道は八方に分かれていった。

 そして、ようやくリタイア組が出た頃から、年に1度だった集まりが、
季節の変わり目に集まることになった。帯状疱疹にやられた者が相次いだり、癌の手術をしたり、暴漢に襲われたりと、安閑としていられなくなった歳のせいか、四季に合わせて顔を見せ合おうではないかとなった。

 

 銀座の会員制クラブ・エスカイアや、築地の「魚河岸三代目・千秋」で、ある時は浅草の老舗「麦とろ」で振袖さんの舞を観ながら、ある時は森鴎外の住居跡の「水月ホテル」で都第一号の温泉に浸りながら、ある時は都の文化財となった木造三階建て「はん亭」の土蔵の中で串揚げをほおばり、談笑してきた。

 不思議なもので、頭髪が寂しくなった年齢になったにも拘わらず、いつしか長塀町や大幸町の時代話になると、もうすっかり、中学の顔に戻っている。長塀町から大幸町へ移転するに際して、同じミッションスクールの金城女学院が我々の校舎を使用する時期があった。同じ校内で、我々の学年だけが、似非「男女共学」を体験した。誰もが、この時期の話になると、興奮してくる。まあ、紅顔の美少年だったころのことだ。

 P1050340_2  冬季の「な・と会」が、浅草・上野・根津から、久しぶりにビジネスの街、丸の内に戻って、「外人記者クラブ」のレストランで集まった。ワインを飲み終わった頃、次回、春季の幹事をI君が引き受けると手を挙げた。僕がサポートを頼まれた。そこで口にしたのが、冒頭の言葉だった。

「今度は、神楽坂でどうだろうか?」誰にも異論はなかった。

 

  幹事下見と称して、I君と飯田橋駅で待ち合わせ、散策した。

「テレ東のアドマチック天国で、神楽坂を取り上げたから、
みんな急に関心が高まってしまったよ。テレビで取り上げた店が候補かい?」

「いいや、別の処を考えている」

P1060392P1060320  駅から急な坂道、神楽坂を上がり、毘沙門天から左回りしながら、I君を案内した。

  住宅地の中に、隠れ家的な店が多い。狭い曲がり道を歩くと、迷い道になる。
ここだと、豆腐屋も風情のある店に思える。「熱海湯」が神楽坂にあるのも不思議な気がする。

 裏手の道筋にロシア料理の店がある。見当たらない。家屋の点検をしているらしい消防士が二人、折良く通りかかった。訊いてみると、「そんな店、確かに昔あったような気がするなあ…」「閉店したんでしょうかね」「そうかも知れないねえ」
この街にロシア料理は珍しいだけに、そぐわなかったのかと諦めて、次の角まで足を伸ばした。P1060323 あった。昔ほど大きな文字ではなくなったが、確かにロシア文字があった。この時間は、クローズだったが、営業はしている。

あの消防士たちは、職業意識はあるのだろうかと、I君。P1060318_2

「鳥茶屋」は相変わらず、人の足が途切れていない。

 

 再び、神楽坂通りに出る。毘沙門天から右折して「伊勢藤」を説明する。昭和初期からの老舗。酒は「白鷹の上撰」のみ。和服の店主が座って、燗付けた徳利の首を摘んで、無言で客に差し出す。
僕の住んでいた根津の「権八」よりも、更に侍の空気が漂う。酒は静かに飲むべしと教えられる店である。とても談笑出来る雰囲気はない。しかし、絵になる。

 

  階段を下りる口に「旬」別館がある。京都の町家のような一軒家である。
下りきると、文壇の作家たちが、篭もって作品を生み出したという旅館が佇まいを見せる。小路を覗くと、京都に迷い込んだような錯覚に襲われる。

P1060314 P1060328

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P1060295 P1060296 お好み焼きの店前に、懐かしい文字を見つけた。味噌樽が縦に積まれて、店のアイディンティティになっている。「仙台味噌」佐々重のブランドである。僕がしばらく担当した広告主である。伊達政宗公の時代からの老舗で、南極越冬隊への供与、仙台の七夕祭りの幹事会社でもある。

 

 大久保通りまで抜けた。その先に、僕の推薦する隠れ家がある。とっておきの隠れ家なので、写真は出さないでおく。全くの住宅地の小路を入ると、そこが食事できる処であろう筈がないと思わせるのだ。案内すると、誰しもが、眼を疑う。

 昔、河田町のフジテレビの前にそうした店があった。住宅地の中にあったので、道路から玄関までの細長い道には、「静かにお歩き下さい」という注意書きが出ていた。残念ながら、いま、その店はない。谷中にも意外な場所に意外な店があった。地元の組頭、森田さんが自宅に造った店があった。三味線の音が聞こえて住宅街の中に、何の変哲もない玄関があった。がらりと開けると、足元に階段があり、階下に足を踏み入れると、囲炉裏が切ってあった。組頭にとっては、お手の物の施工である。そうした隠れ家が騒がしい人に荒らされる。

名古屋のあの隠れ家は、まだ荒らされていないだろうか、大丈夫だろうか。

 

 昼食を取って、予約を入れて神楽坂通りを下った。

 P1060351 最後に牛込橋のかかる「東京水上倶楽部」キャナルカフェに寄った。
P1060394 1918年に出来たボートハウスだが、神楽坂には似つかわしくない洒落た場所である。中央線の車窓から見る風景は、いわゆるウオーターフロントにあるリゾートカフェである。
 神楽坂に似つかわしくないのではなく、近くに日仏会館があるからこそ、
フレンチカフェの雰囲気を保っていられるのだ。

P1060340  尤も、倉本聰の「拝啓、父上様」で、神楽坂の老舗料亭「坂下」で修行する板前の二宮和也が、フランス語しか口にしない女子学生、黒木メイサとデートする場所として、一躍有名になってしまったスポットである。

  本当のところは、歴史的に凄い処だと言ってもいい。牛込堀になる前は草原だったという。P1060387
あの後藤新平(初代東京市長)が、土地の所有者と、市民のためのリクレーションの場として、ボート場を造ることを考えたのが始まり。だから、東京で最初のボート場となった。この牛込堀で皇族もボートを漕いだのだそうだ。

 

P1060358 I君と僕とでは、不釣り合いな場所であるが、ゆったりとした時間をコーヒーを飲んで過ごした。春季「な・と会」の時には、もう一度ここに座って、対岸の堤に咲く夜桜を眺めようやと決めた。

 

P1060368P1060377   奥には、伊勢神宮の分霊を祀った東京大神宮がある。「東京のお伊勢様」である。
いまは、「恋みくじ」を引きに来る女性たちがぞろぞろ鳥居をくぐっていく。
大吉を引けば、恋人が現れること間違いナシとかで、都市伝説のひとつになりつつある。

 

  P1060391P1060378 飯田橋は、古い歴史と郷愁を与えてくれる大人、いや、若者にも心休まる小京都である。

あ、忘れてならないのは、神楽坂は、都内でフランス料理の店が一番多い街だそうだ。


P1060316P1060326 新旧、国内外、老若男女……、昼と夜の顔、うーん、たしかに、何処までも奥の深い街である。

 

 

49日、仲間の顔が楽しみである。P1060384

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2008年2月22日 (金)

日本で最初のビールがあるんですが

 「日本で最初のビールがあるんですが、飲みに行きますか?」

え?横浜ではなかったのか?耳を疑る。
そう呼びかけてくれた斉藤さんは、元広告マン。
僕が、アサヒのスーパードライを担当していたことを先刻ご承知で、
にこっと顔を覗き込んで、誘ってくれた。

「品川県ビールって知ってますか?」
「いや、初耳ですよ」
「では、品川塾で飲みましょう」
「え?塾?予備校で飲むのですか?」
とんちんかんな会話で笑われた。

 

 暮れも押し迫ったある日、そこは、慶応義塾大学の北棟地下の会議室だった。
その日は、小林亜星さん所蔵のSPレコードで昭和の音楽史を聴く会だった。

 

 「シニアエージ」という会に入って二回目の集いである。シニア同志が新しい仲間をつくり、新たな活動を始めようとする、シニアのためのSNS会員のオフ会である。

 


P1050905  明けて28日。その日が来た。集合場所は、京浜急行「青物横丁」。時間は16時。改札口の前に、中年の群れが溜まっていた。「品川ビールを飲む会」の有志たちである。夕方から「幻のビール」を飲みながら、落語を聴くという、シニアエージらしい趣向である。

 駅から右折すれば、かの鈴ヶ森である。我々は左へ旧東海道のブラブラ歩きが始まった。ここから約50分、案内してくださるのは、品川区観光課に所属するボランティアの方だ。

P1050906P1050915P1050919_2    最初に立ち寄ったのは、海雲寺だった。品川の荒神様。火と水の神ということで、本堂の天井には、江戸各地の火消し組の纏標が奉納されていた。釜戸の神様であるだけに、戦火に見舞われることなく、あちこちに江戸の姿を残している。P1050914_2当時の石塀には、「貞奴」、「鈴本  亭」ほか、「雷門助六」、「桂三木助」、「二代目三遊亭圓遊」と、寄進者の名前が見られる。昭和10年には祈者に「広澤虎造」の名もあった。

 目についたのは、他の場所から移されたという平蔵地蔵だった。
鈴ヶ森の刑場で屍を土にうめる仕事をしていたという番人が、ある場所で財布を拾い、翌日落とし主の侍に差し出したという。謝礼で仲間にP1050908振る舞ったが、その正直さをなじられ、死に至ったらしい。平蔵は、「人間、銭がいくらあっても、買えない物がある。それは正直という心だ」という故郷の母の言葉を実行したまでだった。地蔵は、その正直者平蔵を祀ったものだ。この前で、全員の記念写真を撮ることになった。今は季節外れだが、御殿山の桜、海雲寺の紅葉が有名だと、聞かされた。

 

P1050926 P1050936_2  舗装された旧東海道を歩く。道は、参勤交代の大名行列当時の幅のままだ。
路傍には、誇らしげに「東海道品川本宿」という鉄柱の新しい道標が立ち並んでいる。江戸に帰ってきた旅人は、ここで疲れた身体を温泉に浸かり草鞋を履き替え、
江戸を去る者は、ここで旅の身支度を調えるという場所であった。
旅人の出入口、あらゆるものが揃ったレジャーランドとなっていた。人が集まるという場所を各宗派が競って勧誘した場所でもあり、そのため寺街でもあった。

 ガイド役が、もう一人加わって下さった。しながわ観光協会の大越章光事務長だった。

P1050927 P1050933  次に案内された寺は、品川寺(ほんせんじ)。ここでは、さらに大きな地蔵像が出迎えてくれた。座像ではあるが、高さは3m余り。縮小された大仏蔵と見間違う。

 陽も傾いて来た時間なので、そのシルエットが大きく思えた。このような地蔵菩薩座像は、江戸を結ぶ六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置されているそうだ。

P1050930  その一番寺が品川寺。中に入ると、右手に樹高25m、幹周り5.35m、樹齢600年の古木が、近代的なビルを背に立っていた。品川沖の船頭は、この樹を灯台のように目標としていたという。左前方には、ブルーの真新しい標がある。「ジュネーブ通り」とある。そういえば、駅からの地図に、「ジュネーブ平和通り」という文字があった。

 名付けられた理由が判った。1個の釣り鐘がそれを物語った。
大砲を鋳造して造った鐘をパリ万国博覧会に出品したが、帰途に行方不明になった。P1050929 後年、その鐘がスイスで見つかってジュネーブの博物館から
1930年に返還さP1050928 れたのだ。尽力したのが陶芸美術館の館長だったマダム・クルリーだったそうだ。
この鐘のことから、「充てにしていない金」が戻るとか、手に入るという御利益があると、詣る人が絶えないという。

 

 P1050948_2P1050946_2   北品川宿と南品川宿とに分けていた目黒川を渡る。江戸時代には「境橋」とも呼ばれていた品川橋が先にある。1300年の歴史がある荏原神社の鳥居をくぐると、左右に、此処だけだという子犬を連れた狛犬像がある。昭和の頃まで、此処は海だった。天王洲と名付けられているエリアだ。都内で唯一、御輿を海に入れる祭りがある。天王祭という。みな神妙になり、お賽銭を上げて柏手を打っていた。

 

 この品川宿周辺には、本陣跡とか、新撰組の定宿だった「釜屋」跡とか、
町興しのために整備した立て札が読めて解りやすい。東海道27番目の袋井宿ほか、保土ヶ谷宿の松など5つの宿場から寄贈された松が植えられている。公衆トイレも、瓦屋根に滑子塀で、町並みの景観を保っている。脇道に入れば、まだまだ昔の面影を残した家並みと路地が奥まで覗ける。P1050942

 歩いているうちに、自分が住んでいた谷根千(谷中・根津・千駄木)の町にワープした感があった。

 

 家々の窓に明かりが点きだした。17時になった。喉が渇いてきた。P1050954

 品川神社へ向かう参道、サクセス通りに出た。 下町ビストロ「品川亭」という文字が目に入る。地元のまちづくりを進める NPO 東海道品川宿 がプロデュースした店だ。今晩の目的は、日本で最初と言われる、幻のビールを飲むことだ。
本日は、特別に我々の貸し切りとなった。

 

P1050939

 そもそも、この企画に大いに関心を持ったのは、「日本最初のビール」を飲みたいと思ったからだった。ビールの歴史を調べたこともあったが、知らなかったからである。「日本最古の酵母を使ったビールだと聞かされたからだ。数ある酵母バンクから「308酵母」を選んだと広告したからだ。なによりも、その「スーパードライ」市場導入に僕が拘わったからだ。

 

P1050969_2  今夜は、その「日本最初のビール」を復活させた品川縣ビール研究会の事務局長・永尾章二さんが、我々のために説明してくれた。

 それによると、1869年(明治2年)2月、品川県知事の古賀一平さんが、土佐藩主の下屋敷跡地(現大井3丁目付近)に官営ビール工場を作ったという記録があったそうだ。

 これまでは、その翌年の1870年(明治3年)に、米国出身の醸造技師、William Copeland(ウィリアム コープランド)が横浜にSpring Valley Brewery(スプリング・バレー醸造所)を開設した、というのが、日本のビール史では、周知されている。キリンビールの始まりである。試験に出るわけではないが、工場が出来たことと、販売されたことのいずれを最初とするかに意見が分かれる。

 

 誰もが、早くその幻のビールを飲みたいと、待ちきれなかった。

 一人1本ですよ、と斉藤翔三幹事に言われながら、手に取ったボトルは、中瓶のP1050975 330mlで、ラベルは紅白。日の丸に神社の御神籤かと思わせた。説明されたのは、「品川区」のマークだった。小振りのゴブレットに注ぐと、いわゆるイエローカラーではなく、ライトブラウン、いやロゼワイン系だった。味わってみた。どこか、イギリスの「バスペール」。エールビールのテイストだった。
飲みやすい。フルーティ。ホップの苦味は、柔らかく品がある。イケル。飲み出した周囲からも、美味いよ、と予想以上の味に驚いている。
製造元をみると、「田沢湖ビール」とある。最古の酵母は「エド酵母」。
但し、当時のレシピーは残されていないので、味は、研究会が作ったことになる。

「品川縣ビール」は、街起こしの起爆剤だったのだ。
ネックボトルには、「東京都若手商人研究会グランプリ受賞作品」とあった。
リクエストが強く、
2本目をオーダーする。

 P1050986_2

 シニアエージの会は、このまま食事をして終わりではなかった。
落語が聴けるのだ。立川談幸師匠の一席が始まった。会員に北園高校の先輩がいた。

 

P1050991 最後に、しながわ観光協会の大越さんの挨拶となった。
品川に観光がないと言われたことに奮起して、歴史を掘り起こし、観光箇所を整備し、食事処、休み処、蒔絵工房などの店舗を創り、託児所を設け、空き店舗を活性化したり、縁日を復活したりと、これまでのまちづくり協議会の活動を嬉々として語ってくれた。

P1050993  話の流れで、彼は、我々に首の瘤を見せてくれた。御輿を永年担いできた名誉の印だった。品川神社は長い階段の上げ下ろしをし、荏原神社の御輿は海へ担ぎ出すのだ。街起こしに懸命だった大越さんに、思わず拍手の音が沸いた。

 

 東京を、日本を知っているようで知らなかったことが多かった。

 初めてのオフ会は、みな満足した顔で、新馬場駅に向かった。
僕のコートのポケットには、記念の空瓶が入っている。
世界のビール瓶コレクションに新しくて古い幻の1本が加わった。

 

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2008年2月 3日 (日)

熱海で雪降ろし

Img_0054 ここが熱海だと思うだろうか。見渡す限り、銀世界である。1月の28日、29日と降った残雪が道路の端に見られたが、その3日後に、再び雪が降ってきた。そして、地鳴りのような不気味な音で眼が醒めた。屋根に積もった雪が滑落しているのだと、知った。熱海で雪に閉ざされた。2005年には、正月から10日間、山を降りることも出来なかった。食材が底を突き、まさに非常食を食いつないだ。3年後、同じことになりそうだ。

 

熱海というよりも、正確には、多賀の山である。伊豆高原スカイラインから、錦ヶ浦に繋がる熱海新道の山の上である。海抜は約550m。もともと富士火山帯の噴火活動によって形成されたこの土地である。海底火山活動が静まった後も、海の水は、熱く煮えたぎっていたとか。海岸に温泉が噴出して熱湯が海に流れこみ海面一帯に白く湯気を上げましたとかで、この地を「熱っ海が崎」と称していたようだ。

Img_0057 市内の先輩の家では、温泉が70℃もあるので、入るなら冷ましておくから、前もって電話してくれと言われているほどだ。しかし、我が家の、山の上に引き込んだ温泉は、加温する必要がある。麓の熱海市街地との温度差は、常時3℃以上ある。夏は凌ぎやすいが、冬は寒い。

家を建てる時、建築設計士の図面には、洒落た煖炉が描かれていた。居間の雰囲気を出す大道具として、設計士は嬉々として説明してくれた。そうしたインテリアとしての図面は、CMのセットや海外ロケで見慣れている。さして嬉しくもなかった。薪割りの面倒さもあると断ると、電気やガスでどうだろうと自分のデザインに彼はこだわった。僕の要求は、当時としては珍しがられた。床暖房を敷設したいと申し出たからだ。13年前のことである。堀炬燵も要求した。外部から遮蔽されたベランダを含め、その3点にこだわった。

 

Img_0043 Img_0077 地球温暖化による季節の激変までは予想してはいなかったが、しかし、熱海での雪に対抗するには功を奏した。ところが、車は四駆でもないし、その上、ノーマルタイヤのままだ。今朝は、さらに、その隠しベランダに屋根から滑落したり、積もった雪が膝までになった。木造のベランダである。かなりの負荷がかかっているはずだ。

  Img_0062 Img_0085長靴にホカロンを入れて、スコップで雪掻きとなった。まさか、これほどの大雪になるとは予想だにしなかった。関東一円が雪雲に覆われたとあっては、逃れられなかったのだろう。熱海で雪掻きとなった。しばらくは、TVの画面も乱れてしまった。真夜中には、停電もしていたことが判った。陸の孤島で、節句、いや絶句となった。鬼は、外の白い雪だったかもしれない。有り難いことに、パソコンのネットで、情報は取れた。メールでは、九段の靖国神社で雪だるまを作っている孫の姿が届いた。携帯電話もパソコンもない時代には戻れないなとつくずく感じ入った。

こうした中、客船「ぱしふぃっくびーなす」からは、「南太平洋アイランドクルーズ」で、フィジーからボラボラを抜けて、いま、タヒチのパペーテに入ったと船上からメールが来た。南の島には雪は降らないが、温暖化で世界の注目を浴びることになったクリスマス島は、まもなくだ。

Img_0075

こちらは、雪掻きですっかり汗ばんだ。温泉に体を浸して、血行をよくしたい。

節分のこの日、南の鹿児島では、桜島が噴火した。

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