懐かしい鈴鹿サーキットで想ったこと
今晩のホテルはパルコの中のクレセント。このホテルは名古屋では穴場だ、そう僕は思っている。部屋数が少なくて、フロントの応対もいい。今回のクレセントは珍しく1室を残すのみだった。どうやら、名古屋駅前のミッドランドスクエアの開業が間近なため、相当数の出張者が滞在しているのが原因らしい。
客室の窓側はアトリュウム構造になっていて、階下のレストランが眺められる。僕が好んで泊まった鹿児島の天文館にあるホテルも、この吹き抜けスタイルだった。階下は、緑があり水も流れ、鳥の鳴き声も響いていた。此処での朝食は格別な味がした。今その中庭は塞がれて、ザビエル450というホテルに変ってしまった。
今回の名古屋入りは、ひさしぶりに会える人が多い。まずは、その中の二人が早速、ホテルに迎えに来てくれた。元の会社の後輩である。名古屋在籍中に頼りになった営業スタッフである。一人は東京から転勤してきて本社に帰任したが家族の強い要望で再び中部支社転勤を希望したという珍しい経歴で、今は営業部長。もう一人は、名古屋人だが、東京の大学卒で名古屋に配属となり、東京転勤の後再び故郷に戻されたという営業マンである。そういう意味では、僕も名古屋人で東京の大学卒で本社採用となったが、名古屋に長期出張した後、30年後に再び名古屋に転勤となった身だ。この三人は、いわば東京弁と名古屋弁のバイリンガルである。
和食にしようと選んでくれた店は、桜通りにあった。通りの風景には似つかわしくない黒塀の表で、足を一歩踏み入れると、粋なウエイティング・コーナーがしつらえてあり、そこを通り過ぎると、露天の中庭。そして次の軒下には、古い日本家屋の落ち着いた部屋が用意されていた。一瞬京都のどこかに紛れ込んだような気分だった。お湯割りを飲みながら、設計デザイナーを訊いたら、やはり、神谷利徳氏の手になるものだった。新しくできたのではなく、既に開店して今年で7年目だと、料理を運んできてくれた女性が答えてくれた。
「萩さんの好きそうな店だろうと思った」営業部長は、我が意を得たりと喜んだ。経営は「キッチン東京」だというが、僕は知らない。東京には、なかなか無いテーストの店だ。こうした僕の好みの店が、名古屋には数軒ある。名古屋では、稲本健一氏、吉柳満氏という店舗経営者や設計デザイナーの名前がカタカナ業種の人間では当たり前に口に出てくる。30年も前の東京で、六本木、赤坂、原宿界隈が若い空間デザイナーによって次々と変わっていた時期を思い出す。マガジンハウスの「ブルータス」が盛んに紹介した時代であった。今の時代でいえば、デザインショップから、家具照明等、多岐に亘り、全世界に向けた作品集が刊行されている「ワンダーウオール」の片山正道氏に当たる。
名古屋広告業界の話をしているうちに、焼酎もかなり飲み、時間は21時を回った。別の仲間から、食事は終わったかと呼び出され、タクシーで新栄の地下のバーに向かう。名古屋の専門学校講師をしているフォトグラファー、面開発から商業施設の店舗デザインまでこなす空間プロデューサーが待っていた。それに某大手照明家電の部長、某放送局制作者が加わって、さらにしたたか飲んだ。もう頭は、名古屋転勤時代の昔に戻っていた。日にちは変わっていた。外に出ても暖冬のためか、2月の寒さはなかった。相変わらず、犬のマークの小型タクシーが走っている。呼び止めたタクシーに思わず「覚王山、末盛まで!」と口にしそうだった。ホテルに帰って携帯メールを開けると、別の友人から入っていた。飲んでいた店から10mも離れていないところに居た、という。なんという偶然か。それも、蟹江に住む男だ。東京に例えてみれば、四谷三丁目で飲んでいて、その向かいのカフェショップでメールをくれたのが、八王子の友人だったとでも言おうか。名古屋が瞬間的に縮まったようだった。
翌朝、クレセントホテルをチェックアウトして、松坂屋の前を通りかかると、やはり足が止まった。日本のデパートとして銀座に出店したのも初めてならば、靴や下駄履きのまま入店させたのも、エレベーター・ガールなるものを採用したのも、松坂屋銀座店だそうだ。僕が名古屋支社で最初に担当した広告主は松坂屋だった。
戦後、父が勤めていた鉄鋼統制会社も、松坂屋の中にあった。その後、33歳で独立した父の会社は、松坂屋から西の筋に入った、今の「アサヒドーカメラ」の正面にあった。当時の面影を残したビルは全くない。中学生の頃は、父の会社に毎月1度寄っては、近くにあった風車の回る映画館「ステート座」の映画に連れていってもらった。「シェーン」や「真昼の決闘」、「アラモの砦」も此処だったように憶えている。
県庁から金山橋に延びた電車道も「南大津通り」から「白川通り大津」と変わった。割烹料理の「蓬莱」、ういろうの「雀踊り」は残っているが、「安藤七宝店」は通りから奥に入り、父の好きだった珈琲ショップ「サントス」は消えていた。その代わり、「GAP」、「APPLE」、「MAXMARA」、「Beneton」、「ZARA」、「Addidas」、「GUCCI」。そして三越の1階には「CHANEL」と「LUI VITON」、栄の交差点角には「TIFFANY」など、世界のブランド店が南北に軒を連ねている。名古屋の中心部を十字に切ると、西のラインは銀行が並び、東が中部電力に東海テレビ、北のラインが伸び悩みで、このパルコ、松坂屋の南ラインが、急激に変化し始めた。いまや時代は、名古屋城より「名古屋嬢」のほうが注目されている。
足はテレビ塔に向かった。ここで、昼食をとることになっている。昨夜の友人がテナントリーシングしたというレストランを見るためである。名古屋の中心に長い緑の帯がある。札幌と名古屋にあって東京にはないものだ。殺伐とした固いビル群から抜けたところに公園が続いているのは、実にほっとする。テレビ塔に上がるのは中学校の時以来だろうか。日本初のテレビ塔で、「東洋のエッフエル塔」と名古屋っ子は自慢したものだ。構造設計をした内藤多仲博士は、後にあの「東京タワー」も設計したと聞く。「ゴジラ」映画が生まれた同じ1954年に完成した。予約済みだというので、4階に上がった。受付のカウンター以外、レストランの入口が見当たらない。11時30分になったら、それまで洒落た壁だと思っていた大きな磨りガラスが開いた。その奥が「タワーレストラン」の入口だった。「オアシス21」に向かった眺望のいい席に案内された。地上14mに浮かぶ巨大な円盤ガラス屋根だ。夜にはライトアップされて下の店舗街に客を集める。
名古屋で絶好の空間をこれまでよく放っておいたものだと感心した。アナログ放送が2011年に終われば、放送局との関係も薄くなり、電波塔ではなくなる。そうなれば、テレビ塔という長く親しんできた名前さえ、そぐわなくなってくる。名古屋のシンボルをどう活かすか、その有効利用が問われる。それに応えて、TV塔すべての事業計画から共用部の空間デザイン、テナントリーシングを提案したというのだ。確かに、久屋大通公園の真上にたつこのレストランのスペースは、贅沢そのもの。札幌大通公園並みに緑の太い帯状の緑を見下ろしながらの昼食である。
モノトーンでまとめた室内は、外に拡がる景観の色を活かすことにもあり、また斜めの鉄骨をそのままにしたのも、デザインアクセントとして面白い。友人が遅れて入ってきた。コースでなら、1時間ほどのゆっくりした出しになるそうだ。店内を見渡すと、客は時間にも金にも裕福そうな奥様族だ。なるほど、会社の昼休みを利用するOLには、無理な時間だ。
食後、展望台に上がってみた。東には、オアシス21、NHK放送センター、愛知芸術文化センターを見る。南東には、昔の会社があった中日ビルが見える。西に目をこらすと、JRセントラルタワーズだ。ホテル・マリオットの入るツインタワーが霞んでいる。新しいトヨタのミッドランドスクエアがツインタワーと重なってしまった。もう少し南に寄せて建築すれば、名古屋のトリプルタワーとなっただろうに、眺めはツインタワーのままだ。朝からの小雨も上がってくれた。大須にある「ソーホー・ジャパン」のオフィスに寄る。此処から大城社長の運転するウイッシュGで50km西の鈴鹿サーキットに向かう。トヨタの車で鈴鹿サーキットに行っては不味いじゃないか、そんなことが口にでるのが名古屋である。近隣を含めると、ここは自動車王国である。愛知県では、車の購入が商売を左右した。冠たるトヨタ城下町では、出入り業者はトヨタの車でなければ肩身の狭い想いをした。浜松に行くか、岡崎か、挙母市に入るかで、ホンダ、三菱、トヨタと、営業用の台数を持っていなければならなかった時代がある。
道路が整備されて、鈴鹿ICまでは実にスムースだった。僕が免許を取った頃は、国内初のハイウエイ、名神高速が出来たてで、自宅から彦根までは気分転換に夜ぷらっと飛ばしたものだ。 東名阪道路を下りて、狭い町道に入ってくると、道路の左右に、車の整備会社がちらほらと目についてきた。モーター・スポーツの臭いがし始めた。ここら当たりに、イギリスのレストアショップやイタリアのカロッテリア的な会社が集まり始めると、いい雰囲気のヴィレッジが出来上がるのにと、勝手な想いをしながら通過した。
日本の60年代には、そのイタリアのカロッテリアにデザインを依頼した車が多かった。プリンス・スカイライン・スポーツはグロリアのシャーシにミケロッティのデザインボディをかぶせたものだし、縄文時代の遮光器、土偶のような眼鏡をした日野コンテッサも、父の愛車だった1200ccの「たれ尻のブルーバード」も、確かそうしたデザイン車だった。
広大な駐車場を越えると、程なく鈴鹿サーキットのゲートボックスが見えてきた。ガードマンに泊まり客であることを告げる。この辺りの気分は、志摩半島にあるヤマハ「合歓の郷」の気分だ。
世界に冠たるF1レース開催地である。F1時は、15.5万人の観客が押し寄せる。世界各国からのレーサー、ジャーナリストが休むためのホテルが6カ所(ホテル・ラベダーホテル・カルミア、ホテル・マーガレット、ホテル・ガーベラ、ホテル・ジャスミン)、コテージが1カ所、それにホンダらしく広いオートキャンプ・フィールドもある。乗物の多い遊園地を含めると、サーキットの周辺は広大なホンダ・ランドである。浜松の二輪メーカーが期せずして伊勢湾側にそれぞれ世界のファンを呼び寄せるランドを持っているのに、トヨタランドはない。今晩のホテルは、ジャスミン。夕食までホテルとは別の研修所でソーホー・ジャパンの社内会議をする。企業の研修会議には実に適した設備が整っている。エキゾーストノートが遠雷のように聞こえてくる昼間と違い、夜は森の中の会議室となるからだ。
夕食が近づいた。筍塾のメンバーが名古屋から集まってきた。久しぶりの面子が揃った。各人、一国一城の主、経営者である。夕食を終えて、再び研修会議室で経営塾がスタートした。サーファーであり、ウクレレ奏者の藤井社長とは4年ぶりだ。バンコックを往復する川本社長とは福岡以来の筍塾になる。そして大手受験塾の専門学校をマネージしていた佐々木社長は、中小企業診断士を取得して、いまや経営コンサルだ。各自から問題抽出を発表され、そして今後の対応策等々を討議する。この夜は熱かった。気付いたら深夜の3時だった。温泉(天然温泉クアガーデン)には入り損なったが、快い疲労感があった。

翌朝は、エキゾーストノートの響き渡る中、鈴鹿サーキットの関係者の方々が案内をしてくださった。コースの半分を使ってメーカー車の試走が行われ、メインスタンド側の半分は、二輪の予選が、スタンドの外側では、ラジコンカーの大会が行われていた。我々は、国際レース場の施設に余すところ無く入ることができた。横長の総ガラス張り、メインスタンドの特別観覧席に入った。欧米の競馬場での貴賓席のような場所に当たる。F1時の席料は25万円。そこから25m下のレースコースが見下ろせる。鈴鹿のコース、横幅12mは元々二輪レースのための設計だった。全長5.8kmは、かなりの難コースと言われる所以だ。今度のトヨタ運営の富士レーシング・サーキットは4輪用で15mと広くなっている。パドックの上にあるコントロールルームのモニター画面は、至る所に設置されたカメラがコースの状況を映し出していた。
カーブを走り抜けるライダーを観ているうちに遠い昔が懐かしくなった。1964年5月、「第2回日本グランプリ自動車レース」の最中、僕は、へアピンカーブの内側に立っていた。博報堂がこの大会キャンペーンを扱ったので、出張した。入社2年目の時だった。今でも、当時のパンフレットは大事に持っている。式場壮吉とか生沢朗という名前が頭に浮かぶ。ここで僕が「たれ尻のブルーバード」を持ち込んで、スポーツ走行を体験したのは25歳の時だった。新車のブルーバードが音を上げていた。市販車で2分40秒台だそうだ。それからも数回、チェッカーフラッグを振り降ろされてアクセルを踏み込んだ。メインストレートから登りのS字は軽快でも、スプーンカーからヘアピンカーブのスローイン・ファーストアウトがなかなか難問で、一周3分台は無理だった。帰路、名四国道を高揚した気持ちで何度もスピード違反をして、父親にたしなめられていた。
今回は、普段滅多に足を踏み込めない場所に入れた。生まれて初めてフォーミュラカーにも身を沈めた。金輪際こういう姿は無いと記念写真を撮ったが、なんとも面映ゆかった。テクニカルセンターの中のレーシングスクールだった。格納庫のような中には、フォーミュラクラスから、200ccのカートまでが整然と並んでいた。校長は中嶋悟。9歳から入校できる。あの佐藤琢磨は20歳からだった。だがF1のサーキットは鈴鹿から動く。トヨタのモータースポーツ活動50周年の節目となる今年から、フジスピードウエイに移るのだ。
そういえば、カルロス・ゴーンは日産の社長になる前から、自分で運転していたのがフェアレディZである。その原型、フェアレディこそが、日本最初の本格的なスポーツカーだと思う。ブルーバード312型のシャーシーを使ったオープンカーだった。1963年の第1回日本グランプリでは、ポルシェなどを相手に見事クラス優勝した。
僕のスポーツカータイプの試乗は、いすゞベレットの1600GTだった。横倉正純という音楽プロデューサーに借りて乗った。シフトダウンするときの感触が好きだった。2輪メーカーのホンダもプロトタイプS360を発表したが、4輪で印象的なのは、S500から発展したS600、S800だ。ペダルにしっかり伸ばした足の踵を立ててヒル&トウをするのだと先輩たちにいわれたものだ。僕も博報堂自動車部に入っていたことがある。
パブリカスポーツから始めたトヨタはスポーツ800で、デタッチャブルトップのデザインがユニークだった。 プリンス自動車のスカイラインGTは2000GT-Bで伝説を創りあげたし、007映画に登場したロングノーズのトヨタ2000GTもロングノーズのきれいなデザインだった。これらが、この鈴鹿サーキットでガンガン走って日本のモータリゼーションは、飛躍的に発展していった。
ところが、オイルショック以降、石油が限りあるものと気付かされた世界は、中東との戦争を繰り返すに至った。そして、いまや、アメリカでは、国民の76%が米車メーカーは「燃費悪い」と不満を募らせていることが米シンクタンクの調査で分かった。それによると、ハイブリッド車など低燃費車の技術開発の面で「日本が進んでいる」と答えた人が50%に上り、ハイブリッド車などを半年前より買いたいと考えるようになった人が45%に達したとか。06年度の日本メーカーはと言えば、ガソリン高が幸いして北米などの海外市場で燃費性能のいいトヨタ、ホンダ、スズキ、ダイハツは過去最高の生産となったが、日産はゴーン社長の99年依頼の不振となった。今春就職予定の新社会人も4人に一人が購入するなら軽自動車だという。購入金額、外装デザイン、運転のしやすさの次が燃費だという。既に排気量やステータスは眼中にないらしい。
国が全てのガソリンスタンドにバイオエタノール燃料の販売を義務づけたブラジルでは乗用車の15%がエタノール対応車だという。日本は国産バイオエタノールの年間生産量を2030年までに600万キロリットルに引き上げたいとした。昨年11月提案したのは、あの松岡利勝農相だった。
トウモロコシだけでは無理で、稲藁、木材、コーリャン、米などといった新しい原料に頼るそうだ。ただし、それには技術開発が絶対条件。こうして、運輸部門の石油依存度を現在の100%から、30年までに80%まで引き下げる目標を掲げた。どこかで読んだ受け売りだが、車1台分のバイオエタノール燃料には、トウモロコシやサトウキビが100人分必要だそうだ。
環境技術から資源技術へと、乗用車が大きなうねりの中で変わっていく時代だと想いながら、鈴鹿サーキットを後にした。大城社長のハンドルは、僕が育った土地、名古屋港に向かってくれている。
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