音楽という鏡に自分を写す
勤労感謝の日。飛び石連休となった祭日だというのにスポーツジムは満員だった。
ここは、都内最大の規模を誇るというスポーツジムだ。それなのに、この祭日の15時という時間帯に、ランニングマシンは2台しか空いていなかった。スパルームに踏み入れて、さらにそれは確認できた。シャワールーム、洗い場の30カ所は1カ所を除いて、すべて人で埋まっていた。上野駅内にあるとは言え、祭日である。かなりの会員が地元と言えないだろうか。飛び石連休の昼間でありながら、これだけの人が身体を動かすために通って来ている。老齢医療費の自己負担分が厳しくなってきた日本では、セルフ・メディケーションが叫ばれている。リタイアーしてからというもの、同期会の呼び出しが多くなった。そこへ顔を出すこと、つまり健康がなによりの財産だと実感している。中学高校一貫教育の男子校だった僕は、東京で生活している仲間12名ほどと、四季に集まることを決めた。
名古屋から東京に出てきた俺たちだから、「な・と」会と名付けた。冬季の集いは、有楽町にある日本外国特派員協会(外人記者クラブ)となった。
大学の放送研究部の同期会も、いつか会おう!という意味を込めて、僕が「五日会」と名付けた。卒業数年後は決まった月の五日に某レストランで集まっていた。そのレストランが閉店した以降は、毎年1回旅行会に変わった。それは、今日まで続いている。卒業して44年も経っているのに男女が旅をしている。加えて、大学のクラス会も同じように或る年から、旅行会が始まった。クラスメイトのS君が癌に冒された。励ます気持ちで、彼の望む土地に一緒に旅をしようというのが契機になった。彼の好きなゴルフを楽しもうと、毎年2日間連続で2カ所のゴルフ場をプレイする。各地に散ったクラスメイトが、彼の要望で幹事役を引き受けている。不思議なことに、S君の癌は消えたのだ。今秋は盛岡だった。来年は、賢島が決まっている。
定年退社した会社の同期会の幹事役が回ってきた。先回の六本木ヒルズ以来2年ぶりとなった。他に、早期退職した(現在もNTV「笑点」の構成者をしている)E君と(シニアカルチャーセンターの主幹をしている)T君との三人で準備をした。
その同期会前々日、電話が鳴った。「あのな、人工透析を宣告される日になったので、悪いが欠席させてくれ、みんなに宜しくな」力のない声だった。ショックだった。健康である者が互いに顔を合わせることに喜びを持つ同期会だったからというだけではない。既に、現職当時に透析を受けていた営業の同期生が一人他界した。そして、自分も腎不全となり、腎臓が30%しか機能していないと医師から告げられている。そこへ以て、S君からの電話だったからである。
当日は、23名が浅草を一望出来るアサヒタワービルのアラスカに集まった。「38会」と称している。こうした集いで出る話題も、以前は孫とゴルフに尽きたが、今は健診数値と薬の話だ。医師会の会合のようになった。親権に耳を傾けるのは、手術の前の前兆、自覚症状の体験談である。二次会に流れたのは、7名に過ぎなかった。健康を頭に酒量が落ちたのだ。そのため、昭和38年入社当時の話にいつしか戻っていた。二次会は、本所吾妻橋で育った彼の案内で、住宅地の中にぽつんとある馴染みのバーへと流れた。
それから日が経った。
BS日テレで「音楽のある風景」を見た。番組企画は博報堂とあった。番組の終わりにCDが5枚で11800円というCMが出た。「歌が希望だった昭和30年代」というセールキャッチだった。
同じ日、日本作曲家協会50周年記念の特別番組があった。協会が設立されたのが、昭和33年、まだ高校2年生だった。
服部良一作曲の「蘇州夜曲」を渡辺はま子が歌った年に僕は生まれたことになる。番組の司会は、徳光和夫。同年の立教大学放送研究部出身だった。 心筋梗塞で倒れた経験をファイザー製薬から訴えている。同年の鳥越俊太郎も65才の直腸癌克服体験でCMに登場している。
音楽を聴くにつれ、いつしか、自分の過ぎし日を想い起していた。
昭和24年、高峰秀子が歌う「銀座カンカン娘」は、夕飯を食べてから通うソロバン教室の行き帰りに商店から流れていた。教室では、画用紙を差し出す友達に頼まれては、せっせせっせと手塚治虫の「リボンの騎士」を描いていた。10才になった昭和25年には、笠置シズ子の「買い物ブギ」で「わて、ほんまによういわんわ」という関西弁を歌として聴いた。
ラジオの前に座って聴いたのが、「鐘の鳴る丘」だったり、「紅孔雀の歌」だったり、父親の手回しの蓄音機からは、岡晴夫や林伊佐雄、三浦洸一の歌が流れた。西築地小学校時代は、音楽の時間に教室で歌っていたのは、男子では僕だけだったことを思い出す。他の男子児童は、校庭に出て遊んでいてもなぜか、佐野先生は怒らなかった。
昭和30年の中学校の頃は、地元から同じ学校に通う遠藤が、「別れの一本杉」など、やたらと春日八郎の歌を声張り上げて歌っていた。演歌が余り好きではなかった僕も、随分遠藤の影響で歌わされたものだった。
高校1年、昭和32年、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は、修学旅行で行った東京の風景には入っていなかった。2年後上京したとき確か、有楽町橋に川が見えた。「ともしび」の歌が流れる新宿の店は、大学に入るまで知らなかった。ポール・アンカの「ダイアナ」を歌う山下敬二郎らの新しい音楽を聴ける東京には、麻薬のようなスポットがあった。銀座の「アシベ」、「美松」も新宿「スワン」も予備校通学に上京した夏に知った。裕次郎の「錆びたナイフ」は、下宿先の早稲田から、歌舞伎町を朴歯の下駄で、実は夜な夜な歩いた。安藤組が活発な時代だった。ビールが125円だった。今考えれば、ぞっとする想いだ。学内のコーラス部員だった僕らは、宗教主事・柴山満先生の下、クライン・メモリアル・チャーチでの聖歌隊にも成り代わった。
大学に入学した昭和34年、盛んに歌われたダークダックスの「雪山賛歌」は、スキー場で歌えなかった。伊勢湾台風で実家の軒先まで海水に浸かった学生の身としては、スキーに出掛けるどころではなかった。村田英雄の「人生劇場」が流れていた。水原弘の「黒い花びら」は、片思いだった友人と夜道で歌ったし、「僕は泣いちっち」は、高校から同じ大学に入学した守屋浩似の塚本広光が十八番の歌だった。
35年、西田佐知子「アカシアの雨が止む時」は、東大生・樺美智子さんが、国会議事堂デモで死亡した年だ。放研の部室でそのニュースを知った。毎日が、大学の部室から渋谷の恋文横丁「大江河」に寄り道して下宿に帰っていた。昭和36年、名古屋に帰った夏は、柳橋の「スケートリンク」が体育館のようなダンスホールになっていた。渡辺マリ「東京ドドンパ娘」の曲でドドンパを踊っていた。
大学3年、昭和37年、同じ年の「いつでも夢を」を歌った吉永小百合を、20数年後、会社の同期生が彼女のマネージメントをすることになった。ジェリー藤尾が「遠くへ行きたい」を歌った。GW後には就職先が内定した。大学最後の年だからと、冬はスキー三昧だった。スキークラブで行く志賀の東館山では、早朝からラッセルしてゴンドラ代を只にしてもらったり、ザイラーの滑った蔵王では、初日宿泊サービスのジンギスカン鍋を食べたくて、ゲレンデに建つ食堂の2階の宿泊場を渡り歩いたりしていた。毎晩、仲間と肩を組んで、山の歌を歌っていた。
昭和38年、博報堂入社。坂本スミ子「夢で会いましょう」嬉しげに楽しげに悲しげに…夢で会いましょうだった。
昭和39年、岸洋子の「夜明けの歌」、坂本久の「明日があるさ」、園マリの「何も言わないで」の歌に背中を押され、東京から名古屋支社へ武者修業に出された。忘れもしない東京オリンピックの年、僕の名古屋時代が始まった。東京を離れて聴く、母校青学を歌った「学生時代」を先輩のペギー葉山がヒットさせた。この歌は、青学の校歌を歌う場では、誰もが続いて歌い出す。第2校歌となっている。
昭和40年、加山雄三「君といつまでも」の時代、飛ぶ鳥をも落とす勢いだったクレージーキャッツのリーダー、ハナ肇を単独でTVCMに初起用した。我ながら「あっぱれ」なアグッレッシブな時だった。名古屋駅前のトヨタビルのオフィスで、当時はまだ名古屋にいた浅井慎平ちゃんと遊んでいた頃でもある。昭和41年、~飲んで棄てたい面影が、飲めばグラスにまた浮かぶ~ひばりの「悲しい酒」は、名古屋から帰任した自分を映していた。この年のヒット、「ラブユー東京」。ロスプリモスのメンバーだった後藤君が僕と繋がるとは想いもしなかった。新入社員時代、歌劇団出身の女性達が経営する店に同僚4人と通い詰めたものだ。食事を節約して、びくびくしながら、給料袋を開けずに飲みに行った。数年後、打ち明けられたのが、活躍していた弟の存在だった。後藤君はその後、谷川岳の麓に造った山荘で健康的な生活を始めたと聞いている。同じ頃、伊藤ゆかりをTVCMに初起用した。タイガーズの面々は、赤坂にあった渡辺企画の撮影スタジオの隅で盛んに練習をしていたことを思い出す。
昭和42年、ミニスカート旋風を起こしたツイギーが来日。伊藤ゆかりも「小指の想い出」がヒットする。大学のクラスメイトだった栄ちゃん(渡辺栄吉、つまり筒美京平)が、同じAMS(青学ミュージック・ソサイエティ)の先輩、橋本淳とJ-POPSの世界に躍り出た。「バラ色の雲」がヒットした。それからは「ブルーライト・ヨコハマ」、「また逢う日まで」と、筒美サウンドに酔いしれる時代が続く。後に彼は、同じカネボウを担当することになった同僚CDのために、キャンペーンソング「how manyいい顔」を作曲してくれた。
川口真さんの「人形の家」がヒットしたしたのは、昭和44年で、丁度僕らの結婚の年だった。日本のブレンダリーとも言われた広田美枝子が歌った。彼女のデビューは、青学祭でのPSホールだった。彼女を連れてきてくれたプロデューサーは、青学放研の先輩、LFの井村文彦さん(現FMJ-WAVE 会長)。舞台監督は僕が務めた。
昭和45年、~何から何まで真っ暗闇よ~どこに男の夢がある~「傷だらけの人生」鶴田浩二が歌う不吉な年が、日本が未来の技術を世界にアピールしようとした大阪万博が開かれ、月の石と三波春夫の年だった。
昭和46年は、五木ひろし「横浜たそがれ」と尾崎紀代彦「また逢う日まで」だった。この年、放研の先輩達が設立した「AMS(オール・アオヤマ・ミュージックをそのまま社名にしてしまった)」という会社に参加した。グラムフォンのスタジオで、当時、日芸の学生だった荒木豊久のレコーディングに立ち会った。彼のオリジナル曲をグラムフォンにいた筒美京平に頼んだからだ。まだ「四季の歌」は知られていなかった。荒木豊久との出会いだった。ミクシング・ルームで口ずさんでいた僕に、「かすれているが味があるわ、あなた、歌わない?」女性デレクターに真顔で誘われたことが忘れられない。僕も、名古屋支社時代の佐藤デザイナーと夜な夜な守衛に頼み込んで、CBCホールのピアノを借りて曲作りをしていた。当時、いずみたくさんの事務所に出入りしていたので、川口真さんに歌詞を見てもらったことがある。CMの音楽は、いつも作詞を僕がしていた。荒木豊久のバンド「荒木組」が吉田拓郎らの前座を務めていた。後に、いずみたくのレーベル「ガーリック」に僕が結びつけることになる。
昭和47年、ちあきなおみの「喝采」という歌詞の凄さに驚く。従来の歌謡曲にない、ドラマティックヒストリーが書き込まれていたからだ。絶唱型のバラードが日本にはないと、市ヶ谷の荒木豊久のマンションで語りあっていた。彼は子供のためのミュージカルが夢だと言っていた。僕も碑文谷にある木馬座の「ケロヨン」プロモーションCMを創っていた影響で、共鳴していた。あの「ケロヨ~ン!バッハハ~イ!」である。この当時、悪役キャラクターの声をアテレコしていたのが、富田耕吉さんだった。芸名、富田耕生さん。「あっぱれさんま大先生」では、ワシャガエルの声。ロッド・スタイガーやアーネスト・ボーグナインの渋い役を吹き替えている声優の大御所。いまは、熱海の山で僕の家の通り道。大熱海国際ゴルフの会員紹介者になって頂いた。30年過ぎての不思議な縁だ。
昭和48年、中東戦争が勃発し、「五番街のマリーへ」と「ジョニーへの伝言」という阿久悠のバタ臭いバラードが、南こうせつの「神田川」、武田鉄矢の「母に捧げるバラード」という私小説のようなバラードが音楽界を席巻した。オイルショックで、トイレットペーパーの買い溜め騒動が起きた。石油高騰と巨人軍優勝は、2007年の今年に似ている。違っているのは、今年は我がドラゴンズが日本一になったことだ。
昭和52年、石川さゆり「津軽海峡、冬景色」が歌われている時、日芸の放送学科で非常勤講師の二重生活が始まる。そしてそれが22年も続くことになった。
ややあって、今度はテレ東の番組で「第40回日本作詞大賞の受賞発表会」を見ることになった。
司会は、やはり、立教の放研出身の徳光和夫だった。候補作には、川中美幸が歌う「金沢の雨」があった。作詞は吉岡治。彼も、確か、早稲田の放研ではなかったか。彼の学生時代のドラマ台本を僕は持っているはずである。慶応の放研出身で作家になったのは、「宇宙戦艦ヤマト」の脚本家、藤川佳介と、NHKにいた森本毅郎アナ。フジテレビのアナだった早稲田の放研出身の露木茂となる。「オジサンズ11」なんて番組には、この露木と徳光が気を吐いて、我々の世代を張ってくれている。
話はそれたが、TVの画面では、作詞家と歌手がペアとなって、スタジオに設けられた席に座っている。ステージから漏れた光の中に見慣れた横顔があった。荒木とよひさだった。2003年に、映画「いつかA列車に乗って」で、日本映画批評家大賞と監督賞を得た時から見ると、髪は真っ白になっていた。互いに歳を重ねたたものよと思った。彼の作詞した曲は堀内孝雄が歌ったが、今年は他に賞を譲った。
結果、湯川れい子審査委員長から第40回日本作詞大賞を受賞したのは、松井由利夫が作詞し中村美津子が歌った「だんじり」だった。
歌は、バラードが好きだ。谷村新司作曲の「サライ」や堀内孝雄作曲の「山河」、それに「時代おくれ」や「旧友再会」の河島英五の曲が好きだ。仕事を頼んだ時のあの人なつっこい顔が忘れられない。「はぎさん、僕の曲をCMで使いたいと言われる広告会社の方は、決まって、あの曲を、この曲をと、ヒットしたものを頼み込んで来られるのに、はぎさんは、また今度も、オリジナルを書けという。しかも、2本の詞から選びたいと。こういう人、居ませんよお~」それでも、受けてくれて、広告主からは喜ばれるものが出来上がる。そこには、横倉健三という、確かな音楽ディレクターが間に入ってくれていた。名古屋転勤時代には、コンサートの楽屋で豪快に笑いあったものだ。その彼が、48才という若さで逝ってしまった。182センチ、バスケットボールをし、ギターを背にオートバイでツアーをこなし、26年間に4000回以上ライブをこなした。2日に1回という驚異的なペースだった。阪神大震災以来、義援コンサートを毎年開催して、その収益金全額を震災遺児の育英のために寄付を続けていた彼。同じように
NYから帰って、いま、チェロを車に乗せて全国をツアーしている吉川よしひろがいる。
米国ではサムライ・チェリストと言われ、自分ではボヘミアン・チェリストと笑う。世界にも希な、演奏スタイルを編み出した。自分で開発した独特のレスリー機能を付けたブラック・ボックスを左足で操作して、二人分の音を奏でる。しかも、立ったままで、クラシックからジャズまで、バイオリンの音色からラテンギター、パーカッションの音まで聴かせる。耳に障害を持ちながら、ボランティア・コンサートも続けている。今の僕は、彼に河島スピリッツを重ねている。
オールディーズを聴くと、その時代の仲間の顔がフラッシュバックする。歳をとったものだなあと、述懐する。保存してあるレコードをDVDにする作業を来春からし始めないとカミサンに叱られそうだ。今夜は、歌のない曲を聴くことにしよう。浅井慎平ちゃんが企画製作したレコードだ。ウクレレを奏でながら、波の音を重ねた1枚だ。羽子板市がもうすぐだ。気持ちだけでも暑くなろうか。
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