神楽坂は どこまでも奥が深い
「次回は神楽坂にしないか?!」そう切り出したのは、僕だった。
冬季の「な・と会」の食事が終わる頃だった。
名古屋のミッションスクール、名古屋学院の同級生が、大学や就職先こそ違うが、東京に住みついた者同士が集まり始めた。名古屋学院の東京組という意味を縮めたので、「な・と会」とした。
小樽の大学に行った者、大阪や京都の大学に出た者。鉄鋼会社の重役になった者。製鉄会社の人事を取り仕切った者。重電の研究者になった者。外資系の会社に勤めた者。テレビ番組をプロデュースしている者、広告会社を終えた者。銀行マンだった者。車メーカーにいた者。みなそれぞれ、大学受験の結果、道は八方に分かれていった。
そして、ようやくリタイア組が出た頃から、年に1度だった集まりが、
季節の変わり目に集まることになった。帯状疱疹にやられた者が相次いだり、癌の手術をしたり、暴漢に襲われたりと、安閑としていられなくなった歳のせいか、四季に合わせて顔を見せ合おうではないかとなった。
銀座の会員制クラブ・エスカイアや、築地の「魚河岸三代目・千秋」で、ある時は浅草の老舗「麦とろ」で振袖さんの舞を観ながら、ある時は森鴎外の住居跡の「水月ホテル」で都第一号の温泉に浸りながら、ある時は都の文化財となった木造三階建て「はん亭」の土蔵の中で串揚げをほおばり、談笑してきた。
不思議なもので、頭髪が寂しくなった年齢になったにも拘わらず、いつしか長塀町や大幸町の時代話になると、もうすっかり、中学の顔に戻っている。長塀町から大幸町へ移転するに際して、同じミッションスクールの金城女学院が我々の校舎を使用する時期があった。同じ校内で、我々の学年だけが、似非「男女共学」を体験した。誰もが、この時期の話になると、興奮してくる。まあ、紅顔の美少年だったころのことだ。
冬季の「な・と会」が、浅草・上野・根津から、久しぶりにビジネスの街、丸の内に戻って、「外人記者クラブ」のレストランで集まった。ワインを飲み終わった頃、次回、春季の幹事をI君が引き受けると手を挙げた。僕がサポートを頼まれた。そこで口にしたのが、冒頭の言葉だった。
「今度は、神楽坂でどうだろうか?」誰にも異論はなかった。
幹事下見と称して、I君と飯田橋駅で待ち合わせ、散策した。
「テレ東のアドマチック天国で、神楽坂を取り上げたから、
みんな急に関心が高まってしまったよ。テレビで取り上げた店が候補かい?」
「いいや、別の処を考えている」

駅から急な坂道、神楽坂を上がり、毘沙門天から左回りしながら、I君を案内した。
住宅地の中に、隠れ家的な店が多い。狭い曲がり道を歩くと、迷い道になる。
ここだと、豆腐屋も風情のある店に思える。「熱海湯」が神楽坂にあるのも不思議な気がする。
裏手の道筋にロシア料理の店がある。見当たらない。家屋の点検をしているらしい消防士が二人、折良く通りかかった。訊いてみると、「そんな店、確かに昔あったような気がするなあ…」「閉店したんでしょうかね」「そうかも知れないねえ」
この街にロシア料理は珍しいだけに、そぐわなかったのかと諦めて、次の角まで足を伸ばした。
あった。昔ほど大きな文字ではなくなったが、確かにロシア文字があった。この時間は、クローズだったが、営業はしている。
「鳥茶屋」は相変わらず、人の足が途切れていない。
再び、神楽坂通りに出る。毘沙門天から右折して「伊勢藤」を説明する。昭和初期からの老舗。酒は「白鷹の上撰」のみ。
僕の住んでいた根津の「権八」よりも、更に侍の空気が漂う。
階段を下りる口に「旬」別館がある。京都の町家のような一軒家である。
下りきると、文壇の作家たちが、篭もって作品を生み出したという旅館が佇まいを見せる。小路を覗くと、京都に迷い込んだような錯覚に襲われる。
お好み焼きの店前に、懐かしい文字を見つけた。味噌樽が縦に積まれて、店のアイディンティティになっている。「仙台味噌」佐々重のブランドである。僕がしばらく担当した広告主である。伊達政宗公の時代からの老舗で、南極越冬隊への供与、仙台の七夕祭りの幹事会社でもある。
大久保通りまで抜けた。その先に、僕の推薦する隠れ家がある。とっておきの隠れ家なので、写真は出さないでおく。全くの住宅地の小路を入ると、そこが食事できる処であろう筈がないと思わせるのだ。案内すると、誰しもが、眼を疑う。
昔、河田町のフジテレビの前にそうした店があった。住宅地の中にあったので、道路から玄関までの細長い道には、「静かにお歩き下さい」という注意書きが出ていた。残念ながら、いま、その店はない。谷中にも意外な場所に意外な店があった。地元の組頭、森田さんが自宅に造った店があった。三味線の音が聞こえて住宅街の中に、何の変哲もない玄関があった。がらりと開けると、足元に階段があり、階下に足を踏み入れると、囲炉裏が切ってあった。組頭にとっては、お手の物の施工である。そうした隠れ家が騒がしい人に荒らされる。
名古屋のあの隠れ家は、まだ荒らされていないだろうか、大丈夫だろうか。
昼食を取って、予約を入れて神楽坂通りを下った。
最後に牛込橋のかかる「東京水上倶楽部」キャナルカフェに寄った。
1918年に出来たボートハウスだが、神楽坂には似つかわしくない洒落た場所である。中央線の車窓から見る風景は、いわゆるウオーターフロントにあるリゾートカフェである。
神楽坂に似つかわしくないのではなく、近くに日仏会館があるからこそ、
フレンチカフェの雰囲気を保っていられるのだ。
尤も、倉本聰の「拝啓、父上様」で、神楽坂の老舗料亭「坂下」で修行する板前の二宮和也が、フランス語しか口にしない女子学生、黒木メイサとデートする場所として、一躍有名になってしまったスポットである。
本当のところは、歴史的に凄い処だと言ってもいい。牛込堀になる前は草原だったという。
あの後藤新平(初代東京市長)が、土地の所有者と、市民のためのリクレーションの場として、ボート場を造ることを考えたのが始まり。だから、東京で最初のボート場となった。この牛込堀で皇族もボートを漕いだのだそうだ。
I君と僕とでは、不釣り合いな場所であるが、ゆったりとした時間をコーヒーを飲んで過ごした。春季「な・と会」の時には、もう一度ここに座って、対岸の堤に咲く夜桜を眺めようやと決めた。

奥には、伊勢神宮の分霊を祀った東京大神宮がある。「東京のお伊勢様」である。
いまは、「恋みくじ」を引きに来る女性たちがぞろぞろ鳥居をくぐっていく。
大吉を引けば、恋人が現れること間違いナシとかで、都市伝説のひとつになりつつある。

飯田橋は、古い歴史と郷愁を与えてくれる大人、いや、若者にも心休まる小京都である。
あ、忘れてならないのは、神楽坂は、都内でフランス料理の店が一番多い街だそうだ。

新旧、国内外、老若男女……、昼と夜の顔、うーん、たしかに、何処までも奥の深い街である。
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