恥ずかしくも迂闊な、一瞬の過ち。
昼食を口にしたのが13時。朝食後に飲むのを忘れた薬を飲む。船友から貰った薬箱は、7つに仕切られた釣り具用のプラスティックケース。予め1週間分を入れてある。水を用意した。ケースをひっくり返して月曜日分を掌に移し、一気に口の中に放り込み、水を飲んだ。
口の中がチカッと感じた。理由が判った。
夕食後に服用する予定の1錠をプラスティックシートからハサミでご丁寧にも切り離し、曜日別区分けの底に入れたことをすっかり忘れていた。選りに選って、今日がその初日だった。つまり、朝の4錠に夜の1錠をシートのまま、口に放り込んでしまったのだ。
「しまったっ!!」咄嗟に5mほど離れた洗面所に走り込んだ。この間、ものの1分も過ぎていない。人差し指を喉に突っ込んだ。吐ければと思った。しかし、指先についてきたのは、鮮血だった。
咄嗟に頭に浮かんだこと。消化器官を上から下まで切っていくのか。直腸、大腸に擦過傷をつけたら、わざわざ自分で潰瘍になる原因を創り出してしまう。振り返って、カミサンに「キュウ…キュウ…」と言ったが、言葉になっていない。後は、手話になった。なんとか、急いで、「プラスティックケースから、口に中に錠剤と一緒に、四角いものも放り込んだ」と教える。
曜日分毎に仕切られたケースの中には、朝服用の薬4錠の他に、サプリメントのサントリー・セサミン3粒とファンケル・満点野菜5粒が混合されていて、その下に、夜用の錠剤が1錠ずつ切ったシートのまま入れてある。その1錠分のアルミシートを、12個の薬と同時に口に放り込んでしまったのだ。一片の鋭利なカミソリを飲み込んだも同然ではないか。
なんてこった!ミスった!!徹夜で朦朧としていたのだろうか。
…迂闊にも程がある!
事故を起こした瞬間というのは、こういう気持ちが頭をよぎるんだろうな。
救急車のサイレンが近くなった。着いたのだ。一目散に走り、エレベータで降りた。警察署は斜め前、消防署は、ワンブロック奥にある。タイミング良く、病院帰りだったという。
駆け込んだものの、すぐには発車しない。血圧を測り、事と次第を訊かれる。俯いたままの僕への最初の質問は、「呼吸出来ていますか?」だった。大きく何度も頷いた。受け入れる救急病院を電話で問い合わせる作業が始まった。救急隊員が矢継ぎ早に質問をするが、喉に痛みのあるこちらは、喋れない。カミサンがすべて対応してくれた。
顎を上げていたら、四角いアルミのカミソリが食堂から胃に落ちてしまうという思いがあり、首を下げたままにして、ともかく車が一時も早く走り出してくれるのをじっと待った。通院している病院である都立駒込病院を当たってくれた。耳鼻咽喉科は診察に1時間待つという。別の場所を打診する。
順天堂病院が受け入れてくれたようだ。10分くらいで着けると救急隊員が電話を切る。有り難い。サイレンが頭の上で大きく鳴り響いた。一路、お茶の水へ向かった。
このエリアは、病院に恵まれている。永寿、駒込、日大、三井記念、墨東、東大、順天堂、東京医科歯科大、杏林と、総合病院が近くに多い。
救急隊員の引き継ぎが終わると、担当医が来るまで待たされた。パジャマ姿で車椅子に座っている姿に、行き交うナースの目が違って見えた。入院するに際し、用意周到にパジャマ姿に着替えて来るだけの余裕があったのだから、さほどの急患ではないとでも目に映ったのだろうか。眠ろうと思っていた時だったと言いたくても、今の時刻は13時を少し回った頃であるし、当人は喋れない状態である。
この日の夜は、赤坂のバーに長男を連れて行く約束だった。延期を知らせるよう、カミサンに頼んだ。
やがて、耳鼻咽喉科の医師が来てくれた。ひっかかっている錠剤は何だと訊かれ、戸惑う。なぜならば、最近、ジェネリックに変えていたからだ。薬の名前を素早く口に出来なかったのだ。処方箋から得た薬局のプリントを手渡す。
苦しい喉を我慢して医師へ最初に発した言葉は「コ、ウ、ギ、デキ、マ、スカ?」だった。医師は一瞬、「抗議できますか?」と聞き違えたようで、怪訝な顔を向けた。意味を直感で読み取ったカミサンが「来週土曜には、話せるかということです。学生に講義するものですから…」
「まず見つかるか、どうかですね。レントゲンを撮りましょう」
次に、医師はファイバースコープを鼻孔から入れて、どの位置に止まっているかを検査し始めた。
「見つからないですね。胃に落ちたか…昼食直後でしたよね…食べた物に遮られて見つけにくくなりますね」
と、困惑の顔をみせる。喉仏辺りのイラストを描いて此処に異物感があると訴えた。医師が立ち去った。最悪の時は、開腹手術になるかと更に不安が募る。
救急車の中で考えたこと。誤飲は時と場所を選ばず起きるとして、もしも、今、世界一周クルーズの洋上だったら、寄港地までをどうするか、もしも、一日前だったら、孫たちとの昼食会は散々なことになっていたし、もしも、一日後だったら、熱海の山の上にいた。麓までの距離は、車で20分。救急車の到着には1時間もかかっただろう。そう考えれば、不幸中の幸いだった。
レントゲンの結果、残念ながら該当する異物は発見できなかった。それから1時間後、耳鼻咽喉科から消化器科にバトンタッチされた。内視鏡診察の準備に入った。糖尿病ではないですねと念を押された。やはり糖尿病患者は手術しにくいのだ。エイズ、梅毒、C型肝炎ウイルスの有無をチェックするために採血をするという。この際だから、C型ウイルスも検査してもらおう。口内に麻酔薬を含むことになった。従来の経口挿入である。経鼻挿入では、摘出出来ないからだろう。
いよいよ内視鏡検査の部屋に案内された。つまり、ウイルスはなかったとうことだ。16時30分、口内にアタッチメントがあてがわれる。内視鏡が咽頭部を通る。横たわった位置から部分的にモニター映像が見られる。探しながらビデオスコープを前後させる。呼吸が苦しい。食道までの間で発見して貰いたいものだと願う。
食道の気管を拡げるために、空気をかなり送り込まれた。何度かの試行の末に、「光った!これだ!」の声が出た。探せたのだ。寝ている僕も、上目遣いでなんとか画像を睨む。確かに、切った1錠分のシートの端が見えた。内面に切れた痕がある。血が見て取れる。送気送水ボタンが何度も押される。鉗子が何度もシートを挟むが、なかなか動かない。途中、鉗子の先端が曲がってしまう。やり直して再度挿入する。モニターを見ていても、もどかしい。食道内部でのぜん動運動を繰り返す中で、それは見え隠れする。
「一度、胃に落としてから挟むか」「いや、落としたら、探しにくくならないか」
「ここでなんとか、頑張ろう」こうした医師同士のやりとりを耳にして、こちらも懸命に鼻で呼吸をする。
こうして1時間が経過した。鉗子がシートを掴んだ。内部粘膜を傷つけることなく引き上げることは難しくなった。やむをえず最小限の傷で、チューブを取りだした。
長男が病院に駆け付けてくれた。勤務先の大学を早引きしてくれたのだ。まずは、今晩約束している赤坂のバーのママに、行けないことを電話してもらった。さらに、明日、熱海で飲む約束をしていた映像テクノアカデミアのOB、M君へも電話を延期を頼んだ。こうして入院手続きの一切は、彼が済ませてくれた。都内という至近距離にいてくれることでカミサンは随分と心強かったと思う。僕も有り難かった。今に思えば、狭心症で倒れた父親にとって、東京にいた長男の距離感に口には出せない寂しさを知ることになった。最期は、家族の知らない間に心筋梗塞で逝ってしまった。通院していた上舞津の医院の待合室だった。伊勢湾台風の夜の濁流を家族を助けながら切った父親に、親不孝な息子だった。大袈裟に言えば、”生かされた”ことをこれからどう活かすかなどと、殊勝な気持ちにさせられた。
点滴装置の付いた車椅子で待つこと、それから4時間余り。睡魔との戦いだった。心配させているカミサンと長男のためにも眠れなかった。入院の空きベッドを探してくれている時間だった。
術後の経過を慎重に期したい。食道に穴が開いていると大変な手術になるからだと知る。
「九死に一生を得る」という言葉がある。自分は、既に運を使い果たしたのだろうかと想い巡らせた。
21時30分、成形外科の病室に入ることになった。但し、3日後には入院患者が決まっているので、退院しなくてはならないと聞かされた。
摘出した位置は、唇から25㎝奥の食道にあった。
蛇腹のような食道の口腔はおよそ3㎝までになるそうだが、常にぜん動運動で収縮を繰り返しながら、食物を送り下ろしているのだろう。途中で刺さっていた?シートのサイズは縦横1.5㎝の四角形だった。
翌日、新聞を買いに売店を探しに階下に降りた。かつて、ここで腎生検、バイオプシをした病院である。当時、古い器具で2度腎組織の採取に失敗し、新しい器具に替えて終えた。「古い器具しかない病院でもきちんと出来なければ駄目だぞ」ベテランからの叱咤がうつぶせの僕の背中で聞こえた。若い医師の練習台にさせられたのか、という苦い経験がある。僕にとって、好感の持てない病院だった。見違えた。あの古色蒼然とした、伝統的なアーチ型の車寄せがあった威容さは消え、オープンテラスがあり、左右にはスタバとフラワーショップが入り、あたかもビジネスビルのように改装されていた。
リタイーアーが、終の棲家にと都会から離れ自然に囲まれた土地を望めば、近くに大きな医療機関が望めない。介護付き高級マンションでなければ、果たして安心して暮らせないのだろうか。そう考えれば、やはり、老人には「都会還り」が相応しいのだろうか。
美術館があり、映画館があり、大型書店があり、病院があり、観劇が出来、デパート巡りが出来る。後期高齢者医療制度が問題視されている今の日本、安心できる国が問われていることを考え合わせると、なんとも複雑な気持ちになる。
4月28日。我々夫婦には、とても長い一日となった。申し訳ないことに、カミサンは、救急車から9時間余りの心労でバテてしまった。
退院に際し、GWに2回、ゴルフコンペがあるが、と担当医に打診したら、即座に禁止命令を言い渡されてしまった。これまた、携帯電話で断りのメールを送った。術後の万が一に備えて、現住所に留まっていて貰いたいと釘を刺された。当分は、刺激物、ガス飲料、わけてもアルコール飲料は、2ヶ月間の厳禁となった。
いまは、自然のまま、普通のこと、何も起きないこと、何でもないことが一番贅沢なことだと悟った。不自由なく歩けて、不自由なく握れて、不自由なく食べられることの素晴らしさをあらためて思い知らされた。
ある一瞬の動作が、生命を脅かしたかも知れなかったという、これがGW直前の出来事の顛末である。
担当医によれば、彼女の母親にも似た事が起き、その時は開腹手術で摘出したとのことだった。食道の気管に穴が開いてしまう懸念もなく、お陰様で、いまこうしてパソコンに向かっていられる。
世界一周クルーズのにっぽん丸船友(日本デッキゴルフ協会メンバー)からメールが届いた。遥か中東の紅海、エジプトのサファガ港辺りを航行中である。デッキゴルフの歓声が聞こえそうだ。透析設備を載せた外国船は存在すると聞いたことはあるが、メガシップと言えども、まさか、内視鏡、胃カメラまで備えてはいないだろう。
日本客船では、船上のイベントに餅つきがある。平均年齢70歳の船客が、つきたての餅で、あるいは飴玉で、うっかり喉が詰まるということが無いとは言えない。
お陰様で、呼吸障害や言語障害の後遺症の心配もなく退院できたのは、懸命に冷静に摘出をしてくださった順天堂病院、消化器内科の島田裕慈ドクターによるファイバースコープの巧みな操作力と、細谷聡子担当医のスタッフワークによるものだ。深く感謝する次第です。
そして、これが笑い話で語れるように、後遺症のないことを祈るばかりだ。
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