我々の錦町シンボルが消える
久しぶりに神田錦町を歩く機会があった。
神田駅から神田警察を通り過ぎ、6階建ての新校舎になった正則学園を仰ぎ見る。
建て替え工事のために、正則学園が移転してきていたのだ。
「屋上が運動場ですよ」。立ち止まっていたら、通りがかりの人が教えてくれた。
オーム社の交差点を渡ると、そこには、歴史を留めた4階建ての姿がある。
高層ビルに変貌している中でひときわ古色蒼然とした姿だが、顔つきは威風堂々と建っていた。
右上の鉄塔の部屋で、半年間マル秘の仕事をしていた。
電波媒体のチーフは市川実、サブが石川曄児。
今年で創業113年目を迎えた。この間、丸の内仲通り、東京駅前、田町を経て、
今春は赤坂に移転した。
会社のマークは、三色旗で、慶應義塾のOBマークだとか、全国理容協会のマークだと揶揄された。
僕は1963年、錦町のそのデコラティブな建物に通勤しはじめた。
会社の横にある「神田錦町」のバス停から、「本郷追分」まで15,6分で帰れる。
それは兎も角、社員通用口は重役車両の駐車している裏口からであった。
遅刻となる時間には、守衛室の前に葉書大の用紙が置かれた。
今年、この社屋が取り壊される。我々新入社員、想い出の城が消える。

本社の横の喫茶店「シャンボール」は閉じていた。もしかすると、既に廃業しているのかもしれない。
三省堂の横道を曲がると、角は「兵六」。ここでの芋焼酎の臭みが馴染めず、先輩に誘われてもなんとか言い訳を考えて
小路を入ると、「ミロンガ」が、その先には「ラドリオ」の灯りが今もあった。
「ラドリオ」は、3年目の頃から、石橋進、荒井春代、佐久間敬一郎という先輩たちとの午前企画会議の定例会場であった。ここのウインナーコーヒーは何処よりも美味い味がした。
行方不明になった石橋進先輩を捜すために、随分と神田駿河台下のパチンコ店を走り回った。
昼食は、社食のパインルーム(松屋が経営していた)が混んでいると、
忘れられないのは、パチンコ店の裏道に10人も座れば、外で並んで待つという「キッチン・ジロー」。
あるとき、僕がジローさんに言った。
「ジローさん、客はね、バットから取りだしたハンバーグのネタを秤にかける時、
案外じっと見ているものだよ。オープンキッチンのいいところはね、いま、自分のオーダーしたものを作ってくれているんだなと判ると、ツバが出てくるほど嬉しいんだ。で、そのときさ、ちょっとした演技をしてほしいな」
「演技?」「そう、演技。アバウトで掴み取って秤にかける時さ、ちょっとそれにもう一度、量を足すのさ。足したら量らないの。それが、客の目には嬉しいのだよね」
そんなやりとりを何度かしている内に、客の喜ぶメニューをデザインしてくれないかとなった。当時は、ワープロもパソコンもない時代。書類はタイプ室に発注しなければ、打って貰えない。デュプロマという小型の謄写版のようなものしかなかった。それに、丸文字に近い僕の手書きで、こだわり食材の産地説明から、料理法、カロリーまで示すスタイルを紙にした。それが客の評判になった。マスターは喜んでくれた。
1年後、僕は結婚することになった。式に出るよと言ってくれた。名古屋で結婚式をし、東京で披露宴となった。ところがジローさんは、人手の少ない店を休めず、欠席となった。あれから、40年弱経った今、自社工場を持つ外食産業のヒットチェーンの社長になっている。
その第一号店のあった場所は、和風の壁と木目のドアが付いた店?に様変わりしていて、キッチン・ジローは3軒先の角に移っていた。
スズラン道りに出て、今日の会場、SANKOENに18時ジャストに着いたら、既に全員が座っていた。
“病気と孫の話は禁止”という幹事の指令のもと、和気藹々話が弾んだ。会の終わりにも間に合わなかった同期生は、現役の社長だった。
そして、経済成長を支えてきた年代が生活弱者にされていく時代。
駿河台からお茶の水駅に向かう坂を歩いて、主婦の友社が消えた理由を考え、
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