東京の名古屋学院生
時の経つのは早いものだ。ついこの間、仲間に会ったと思ったのだが、3ヶ月が経ってしまった。
東京に住んでいる名古屋学院時代の親友たちで集まるから、「なと会」。
春季会場は、神楽坂の奥座敷と言える和風のレストランだった。幹事役の岩尾信正君と下見をした折りに珈琲を飲んだのが、牛込堀の「東京水上倶楽部」のキャナルカフェだった。
夜桜でも眺めながら、水辺で珈琲と最後に案内するつもりが、できないままに終わった。だから、夏季の会場は、海風に吹かれながらビールを飲もうと、天王洲のレストランを頭に浮かべた。
「なと会」のメンバーは、二人が他界し、今では12名ほどになってしまった。
神学校で進学校の中学時代。いつも固まっていた仲間。廊下に張り出される巻紙の成績順でライバルとなった勉強仲間だ。中学3年では全校50番 までが入れるDクラス。同じく高校に進級して、それがFクラスとなり、高2では大学受験の理科系と文化系コースにクラスが分かれた。高校の教科書はこの年 で修了。高3では専ら受験問題に取り組む。再び公立系と私立系に分かれる。僕は文化系の私立コースだった。この仲間の殆どは公立系受検組だった。途中、東京の高校へ転校していった者は、上智大と国際基督教大学に進んだ。それが、再び東京に寄り集まった。50歳を越えても、彼らとは中学生のままである。どんな経緯で結婚相手を見つけたのかという話題は全く出ない。子供の話も滅多に出ない。頭髪は白くなったり、薄くなったりだが、気持ちは日曜教会に通っていたりした詰め襟の学生服姿のままである。
夏季の幹事は、逗子から来る増田武彦君。
天王洲アイル駅を出て、運河に面したウッド・プロムナードが待ち合わせ場所になった。
大崎から臨海線で降りる。ビル群の雁行に組み込まれた渡り廊下を運河に向かった。
未だ予定の時刻に30分も早かったのに、既に初老の男たちが集まっていた。初めての場所だからと早く来たのだとそれぞれが言う。レストランへ誘導する。
こんな場所が都内にあるとは知らなかったよ、と驚きながら喜んでくれる。予期した通りの反応だった。
運河に面したこのミニブリュワリーは、倉庫を改造したもので、オーナーは寺田倉庫だ。1997年にオープンしたのであるから、既に10年余りが経つ。改装した時に、シェフも入れ替えたという。ウオーターフロントのレストランとしては、日本離れした雰囲気を創っている。天井の高さも12mある。サンフランシスコのユニオンストリートのレストランにでも入ったようだ。いや、LAのマリナデルレイにもありそうな感じだ。外人客が多いので余計にそう思わせる。幸いに今日はロケ隊の姿はないようだ。
ビアレストランの名前は、「T・Y HARBOR BREWERY」。
Harborというからには、船が係留されるのだろうが、話によると、オーナーのクルーザーが接岸されるのだそうだ。「T・Y」のTは天王洲、Yはヨットかと思ったら、これも、どうやら、寺田倉庫先代社長の寺田保之介氏のイニシャルのようだ。
オーダーは既に幹事が予約済み。飲み物は当然、ビール。ここでは、醸造しているビールを3種類テースト出来るのだが、ピッチャーで頼んだのは、その内のペールエールらしい。ロンドンパブでお馴染みの味だ。ハーブやスパイスを効かせたビールには、関心はなかったようで、幹事役は急き立てられるようにグラスに注ぐ。
ビール市場を活性化する先鞭をつけたドライ戦争。それ以降「DRY]と名のついたビールが世界に急増した。
飲食店では、ビール愛飲者が自分のブランドを口にし始めた。尤も、ピルスナータイプの味に慣れた日本人が、その後、市場争奪戦
を繰り返すうちに、酒税法の対抗策として、発泡酒という日本的なビールを産んでしまった。その上、ビール風飲料まで発売されるに至っては、多くのビール愛 飲者から本来のビール味を遠ざけてしまったと言える。「ビールと間違えちゃいました」というサッポロ「麦とホップ」に至っては、メーカー自らが、間違えさ
せるビールもどきを発売していますと受け取られても仕方がない。
最低製造数量基準が2000klから60klに 緩和されたことで、小規模醸造のビールが飲めるようになった。ミニブリュワリーと言われるそれは、「地ビール」として、全国各地に地域密着型の花形として 一時ブームになっていたのだが、大手メーカーの低価格商品の攻勢に抗しきれず、今は話題になることも少なくなった。
小規模ロットのため、賞味期限や価格が 販売にブレーキがかかる。経営も難しい。東日本ハウス傘下の「銀河高原ビール」も岩手から阿蘇まで市場を拡げるかに思えたが、息切れた。
名古屋でもポッ
カ・コーポレーション傘下のミニブリュワリー、今池にあった「トライアングルブルー」が消えた。伏見には、「ねのひ」の盛田酒造が経営するミニブリュワ リーがある。盛田酒造は、ソニーの創業者・盛田昭夫の実家としてよく知られている。名古屋在任中は「ランドビア・サーカス」にはよく行った。いまは、赤味
噌ラガーが飲めるようだ。同じ酒造メーカーでも鹿児島の薩摩酒造には、薩摩芋で創った発泡酒がある。これが工場長自慢の味で、なかなかに美味しかった。日 本初の地ビールと言われるエチゴビール、それにスワンビールは、新潟を訪れたとき足を伸ばした。御殿場高原ビールは、昔は機械栓のボトルが良かった。日本
で最初のビールか?と言われる品川ビールは、秋田県で最初の地ビールを造った田沢湖ビールが再現してくれた。
当然のことだが、造られているその場で飲むビールは一番鮮度が高く、美味い。米国には、そのマイクロ・ブリュワリーが大学内にあったりするらしいが、豪州ゴールド・コーストにあるリゾート、サンクチュアリーコーブではゴルフを終えた後にそれが飲める。 僕は訪れた土地のビールを極力、飲んでその空ボトルを持ち帰る。
今夜の「T・Yハーバーブリュワリー」では、エールビールを飲んだ。上面発酵ビール。酵母を常温で短時間に発酵させた、ちょっとフルーティなビール。発酵中に酵母が浮き上がるからだが、上面醗酵のほうが醸造は容易である。
ピッチャーのビールは、2杯目が終わった。そして、カリフォルニアワインに変わっていった。
母校の昔話が出た。長塀町の校舎を金城学院に売却して、当時は名古屋市の端になる地に中高が移転した。新しい大幸町の校地は2万坪。兵器敞跡だったため、校舎の後ろには溜池のような自然のプールがあった。そこでザリガニを取った。道路を隔てた公設市場に先生の目を盗んでうどんを食 べに行った。校地の角にある芝生を敷いた宣教師の家で、英会話の授業があったこと。斜向かいの学芸大附属高校には、我々男子校にはいない女子高生がいたこと。池田晃一が剣道部員だったこと。そして彼が夢中になるスポーツがラグビーからゴルフになっていったなどなど。
この仲間でゴルフに行くことが始まったのは、池田の音頭だった。中でも、根本圭造は、我々のゴルフの先生格だ。
「ダンロップフレンドリーゴルフ関東地区大会」で2003年も2007年も優勝しているし、「宍戸ヒルズ」のメンバーとしても好スコアを出している。今年も既に45ラウンドを済ませたことに、我々は驚かされた。
そして、米国横断の旅から帰ったばかりの西野昭男の土産話になった。シアトルのニンテンドー・オブ・アメリカの荒川社長の案内で、セーフコ・フィールドでイチローと撮ったという写真を見せてくれた。残念なことに、少し手ブレしていた。初耳だったのは、ワシントン州レドモンドのニンテンドー・オブ・アメリカの敷地内に、デジペン工科大学というゲーム大学があることだった。300人の学生枠に3000人の応募があったそうだ。
菊池寛賞を獲った村田亨は、読売テレビ開局50年記念番組で、8月に「日中戦争秘話 二つの祖国を持つ女諜報員~鄭蘋如(テンピンルウ)の真実~」を、3月に「松方コレクション」をプロデュースすると予告した。岩尾巖は、東西奔走して経営コンサルをする傍ら、帆船日本丸男声合唱団で歌っている。今日は欠席したが、岩堀はバドミントンで全日本シニアの大会に出る腕前だし、金谷光博は合気道の師範である。68歳、羨ましいほどに元気である。
運河の先を赤い提灯が揺れていく。屋形船である。それで一気にLAから日本に引き戻された。
帰りは、品川駅の裏までみんなでぶらぶらと歩いた。この男たちの集まりは、同窓会紙「敬愛」には載らないでいる。
次回幹事は西野昭男に決まった。東京の名古屋学院68歳たちを、冬季は何処の街に連れ出してくれるのだろうか。
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