歴史

2008年6月16日 (月)

我々の錦町シンボルが消える

 久しぶりに神田錦町を歩く機会があった。

 神田駅から神田警察を通り過ぎ、6階建ての新校舎になった正則学園を仰ぎ見る。僕の住んでいる斜め前の下谷小学校に、03年から急に高校生の群れが現れた。
建て替え工事のために、正則学園が移転してきていたのだ。都会に建つ学校らしく、ビジネスオフィスと見間違うばかりのビルになっていた。
「屋上が運動場ですよ」。立ち止まっていたら、通りがかりの人が教えてくれた。

 

 オーム社の交差点を渡ると、そこには、歴史を留めた4階建ての姿がある。
P1000041 高層ビルに変貌している中でひときわ古色蒼然とした姿だが、顔つきは威風堂々と建っていた。創業1895年(明治28年)。その6年後に、電報通信社、つまり電通が立ち上がる。

 右上の鉄塔の部屋で、半年間マル秘の仕事をしていた。会社の中でも限られた者しか知らない秘密の仕事場だった。
電波媒体のチーフは市川実、サブが石川曄児。印刷媒体のチーフが星谷明(退社後、レマン設立)、サブが島倉孝次。錚々たる先輩連に囲まれた。花王石鹸が歯磨きという新しい市場に進出する戦略を練った場所だ。

 

 今年で創業113年目を迎えた。この間、丸の内仲通り、東京駅前、田町を経て、
今春は赤坂に移転した。
 会社のマークは、三色旗で、慶應義塾のOBマークだとか、全国理容協会のマークだと揶揄された。尤もその後に決められた社章では、銀座や六本木の店で、「Hな人たちだ」と言われた。この頃は、「ニシキ」とか、「ツキジ」とかの隠語は消えていた。なぜならば、ライバル社も実戦部隊は移転していたからだ。

 

P1000074_2 P1000073_2  僕は1963年、錦町のそのデコラティブな建物に通勤しはじめた。それまで通学していた世田谷最澄寺から文京区本郷追分に居を移した。飲んでタクシーに乗ると、聞き違いをされて新宿の追分方面に何度も連れて行かれた。

 会社の横にある「神田錦町」のバス停から、「本郷追分」まで156分で帰れる。至極、近距離からの通勤だったことがある意味ではマイナスでもあった。中央線沿線派と湘南沿線派という言葉を後で知ることとなったのだ。

 
 それは兎も角、社員通用口は重役車両の駐車している裏口からであった。
遅刻となる時間には、守衛室の前に葉書大の用紙が置かれた。サインをする名前の脇に、大きな赤いゴム判が押されてあった。『電通に追いつけ、電通を追い越せ』という文字だった。まだ、ハクホウドウが神田のサンセイドウと間違われていた時代に、である。

  総合企画局ラテ企画制作部に配属されたのだが、希望はPR局員だった。アンダーグラウンドのジャーナリストになりたかった。ところが、大学は放送研究学部ラジオ制作学科?卒業生だったためか、これからのテレビCMをやってみろと上から言われた。今で言うところのクリエィティブセクションは、長谷川ビル別館にアート局があった。こうして、別のクリエィティブ哲学がそれぞれに進んで、やがて合流点を見いだしていった。


 今年、この社屋が取り壊される。我々新入社員、想い出の城が消える。年に一度の同期会が、すずらん通りの店で開かれることになった。少し早く着いて、懐かしい時を戻してみようと、浦島太郎の気分で、周辺を歩き回った。

 

P1000070P1000038  本社の横の喫茶店「シャンボール」は閉じていた。もしかすると、既に廃業しているのかもしれない。ここは、清浦先輩に毎朝連れ出されて行った店で、新入社員の僕にとっては教室だった。ノートを取りながら先輩から話を聴く場所だった。しばらくは珈琲を味わう余裕もなかった。「イトウ屋」の珈琲は、京都での「イノダ」の珈琲に出掛ける気分にも似て、美味い珈琲をゆっくり味わう場所だった。 

P1000062  三省堂の横道を曲がると、角は「兵六」。ここでの芋焼酎の臭みが馴染めず、先輩に誘われてもなんとか言い訳を考えて断っていた。後年、その芋焼酎の本流、鹿児島薩摩酒造の「白波」を担当するとは、想像も出来なかった。しかも、東京で最初の焼酎バーを創ることなど。この赤提灯を前にして、本坊松実社長の顔が浮かんだ。

P1000063 P1000064  小路を入ると、「ミロンガ」が、その先には「ラドリオ」の灯りが今もあった。
「ラドリオ」は、3年目の頃から、石橋進、荒井春代、佐久間敬一郎という先輩たちとの午前企画会議の定例会場であった。ここのウインナーコーヒーは何処よりも美味い味がした。スズラン道りに出れば、三省堂も東京堂も、自分たちの図書館となった。

 行方不明になった石橋進先輩を捜すために、随分と神田駿河台下のパチンコ店を走り回った。多くは「人生劇場」で見つかった。

 

P1000058 昼食は、社食のパインルーム(松屋が経営していた)が混んでいると、湯麺、焼きそばに独特の味がした「神田餃子屋」、親子で揚げていたとんかつ専門店「羅生門」や、 ボリュームたっぷりの天麩羅「あまみ」に通った。「羅生門」は既に跡形もなかった。少し贅沢になると、肉卸店直営の「いぬ居」の牛弁当というお重。

 更に贅沢な夕食は、バラライカの音に誘われて地下に降りるロシア料理の「バラライカ」今はビルの面影すらなくなっていた。

 

 忘れられないのは、パチンコ店の裏道に10人も座れば、外で並んで待つという「キッチン・ジロー」マスターは小林二郎さん。奥さんやバイトの子が出前を担当し、ジローさんが両手でハンバーグを叩き、ジョーさん(城の内さん?)が絶妙のカレーを創ってくれて食べさせてくれた。

 あるとき、僕がジローさんに言った。
「ジローさん、客はね、バットから取りだしたハンバーグのネタを秤にかける時、
案外じっと見ているものだよ。オープンキッチンのいいところはね、いま、自分のオーダーしたものを作ってくれているんだなと判ると、ツバが出てくるほど嬉しいんだ。で、そのときさ、ちょっとした演技をしてほしいな」

P1000052 「演技?」「そう、演技。アバウトで掴み取って秤にかける時さ、ちょっとそれにもう一度、量を足すのさ。足したら量らないの。それが、客の目には嬉しいのだよね」

 そんなやりとりを何度かしている内に、客の喜ぶメニューをデザインしてくれないかとなった。当時は、ワープロもパソコンもない時代。書類はタイプ室に発注しなければ、打って貰えない。デュプロマという小型の謄写版のようなものしかなかった。それに、丸文字に近い僕の手書きで、こだわり食材の産地説明から、料理法、カロリーまで示すスタイルを紙にした。それが客の評判になった。マスターは喜んでくれた。

 1年後、僕は結婚することになった。式に出るよと言ってくれた。名古屋で結婚式をし、東京で披露宴となった。ところがジローさんは、人手の少ない店を休めず、欠席となった。あれから、40年弱経った今、自社工場を持つ外食産業のヒットチェーンの社長になっている。

P1000050 P1000051  その第一号店のあった場所は、和風の壁と木目のドアが付いた店?に様変わりしていて、キッチン・ジローは3軒先の角に移っていた。

 

 スズラン道りに出て、今日の会場、SANKOENに18時ジャストに着いたら、既に全員が座っていた。遠くは熊本からも飛んで来た。 数年で退社した同期生にもこの会は積極的に呼びかけている。都内一と評されるさぬきうどんの店主も姿を見せた。早期癌を摘出しゴルフ焼けした顔もあった。73名入社したが、残念ながら鬼籍に入った者13名である。P1000053 P1000054“病気と孫の話は禁止”という幹事の指令のもと、和気藹々話が弾んだ。会の終わりにも間に合わなかった同期生は、現役の社長だった。

  ラジオが全盛だった時代、コークとボーリングの時代、「平凡パンチ」の時代だった。今は、テレビがインターネットに座を渡す時代、Wiiでボーリングをする時代、携帯電話小説を読む時代。デジタル・チルドレンが時代を塗り替えていく。

 そして、経済成長を支えてきた年代が生活弱者にされていく時代。確実に首都圏大地震が近づいている時代。

 

 駿河台からお茶の水駅に向かう坂を歩いて、主婦の友社が消えた理由を考え、明治大学の高層建築を見て、大学が再び都心に戻って来たことを思った。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年2月22日 (金)

日本で最初のビールがあるんですが

 「日本で最初のビールがあるんですが、飲みに行きますか?」

え?横浜ではなかったのか?耳を疑る。
そう呼びかけてくれた斉藤さんは、元広告マン。
僕が、アサヒのスーパードライを担当していたことを先刻ご承知で、
にこっと顔を覗き込んで、誘ってくれた。

「品川県ビールって知ってますか?」
「いや、初耳ですよ」
「では、品川塾で飲みましょう」
「え?塾?予備校で飲むのですか?」
とんちんかんな会話で笑われた。

 

 暮れも押し迫ったある日、そこは、慶応義塾大学の北棟地下の会議室だった。
その日は、小林亜星さん所蔵のSPレコードで昭和の音楽史を聴く会だった。

 

 「シニアエージ」という会に入って二回目の集いである。シニア同志が新しい仲間をつくり、新たな活動を始めようとする、シニアのためのSNS会員のオフ会である。

 


P1050905  明けて28日。その日が来た。集合場所は、京浜急行「青物横丁」。時間は16時。改札口の前に、中年の群れが溜まっていた。「品川ビールを飲む会」の有志たちである。夕方から「幻のビール」を飲みながら、落語を聴くという、シニアエージらしい趣向である。

 駅から右折すれば、かの鈴ヶ森である。我々は左へ旧東海道のブラブラ歩きが始まった。ここから約50分、案内してくださるのは、品川区観光課に所属するボランティアの方だ。

P1050906P1050915P1050919_2    最初に立ち寄ったのは、海雲寺だった。品川の荒神様。火と水の神ということで、本堂の天井には、江戸各地の火消し組の纏標が奉納されていた。釜戸の神様であるだけに、戦火に見舞われることなく、あちこちに江戸の姿を残している。P1050914_2当時の石塀には、「貞奴」、「鈴本  亭」ほか、「雷門助六」、「桂三木助」、「二代目三遊亭圓遊」と、寄進者の名前が見られる。昭和10年には祈者に「広澤虎造」の名もあった。

 目についたのは、他の場所から移されたという平蔵地蔵だった。
鈴ヶ森の刑場で屍を土にうめる仕事をしていたという番人が、ある場所で財布を拾い、翌日落とし主の侍に差し出したという。謝礼で仲間にP1050908振る舞ったが、その正直さをなじられ、死に至ったらしい。平蔵は、「人間、銭がいくらあっても、買えない物がある。それは正直という心だ」という故郷の母の言葉を実行したまでだった。地蔵は、その正直者平蔵を祀ったものだ。この前で、全員の記念写真を撮ることになった。今は季節外れだが、御殿山の桜、海雲寺の紅葉が有名だと、聞かされた。

 

P1050926 P1050936_2  舗装された旧東海道を歩く。道は、参勤交代の大名行列当時の幅のままだ。
路傍には、誇らしげに「東海道品川本宿」という鉄柱の新しい道標が立ち並んでいる。江戸に帰ってきた旅人は、ここで疲れた身体を温泉に浸かり草鞋を履き替え、
江戸を去る者は、ここで旅の身支度を調えるという場所であった。
旅人の出入口、あらゆるものが揃ったレジャーランドとなっていた。人が集まるという場所を各宗派が競って勧誘した場所でもあり、そのため寺街でもあった。

 ガイド役が、もう一人加わって下さった。しながわ観光協会の大越章光事務長だった。

P1050927 P1050933  次に案内された寺は、品川寺(ほんせんじ)。ここでは、さらに大きな地蔵像が出迎えてくれた。座像ではあるが、高さは3m余り。縮小された大仏蔵と見間違う。

 陽も傾いて来た時間なので、そのシルエットが大きく思えた。このような地蔵菩薩座像は、江戸を結ぶ六つの街道の入口にそれぞれ一体ずつ安置されているそうだ。

P1050930  その一番寺が品川寺。中に入ると、右手に樹高25m、幹周り5.35m、樹齢600年の古木が、近代的なビルを背に立っていた。品川沖の船頭は、この樹を灯台のように目標としていたという。左前方には、ブルーの真新しい標がある。「ジュネーブ通り」とある。そういえば、駅からの地図に、「ジュネーブ平和通り」という文字があった。

 名付けられた理由が判った。1個の釣り鐘がそれを物語った。
大砲を鋳造して造った鐘をパリ万国博覧会に出品したが、帰途に行方不明になった。P1050929 後年、その鐘がスイスで見つかってジュネーブの博物館から
1930年に返還さP1050928 れたのだ。尽力したのが陶芸美術館の館長だったマダム・クルリーだったそうだ。
この鐘のことから、「充てにしていない金」が戻るとか、手に入るという御利益があると、詣る人が絶えないという。

 

 P1050948_2P1050946_2   北品川宿と南品川宿とに分けていた目黒川を渡る。江戸時代には「境橋」とも呼ばれていた品川橋が先にある。1300年の歴史がある荏原神社の鳥居をくぐると、左右に、此処だけだという子犬を連れた狛犬像がある。昭和の頃まで、此処は海だった。天王洲と名付けられているエリアだ。都内で唯一、御輿を海に入れる祭りがある。天王祭という。みな神妙になり、お賽銭を上げて柏手を打っていた。

 

 この品川宿周辺には、本陣跡とか、新撰組の定宿だった「釜屋」跡とか、
町興しのために整備した立て札が読めて解りやすい。東海道27番目の袋井宿ほか、保土ヶ谷宿の松など5つの宿場から寄贈された松が植えられている。公衆トイレも、瓦屋根に滑子塀で、町並みの景観を保っている。脇道に入れば、まだまだ昔の面影を残した家並みと路地が奥まで覗ける。P1050942

 歩いているうちに、自分が住んでいた谷根千(谷中・根津・千駄木)の町にワープした感があった。

 

 家々の窓に明かりが点きだした。17時になった。喉が渇いてきた。P1050954

 品川神社へ向かう参道、サクセス通りに出た。 下町ビストロ「品川亭」という文字が目に入る。地元のまちづくりを進める NPO 東海道品川宿 がプロデュースした店だ。今晩の目的は、日本で最初と言われる、幻のビールを飲むことだ。
本日は、特別に我々の貸し切りとなった。

 

P1050939

 そもそも、この企画に大いに関心を持ったのは、「日本最初のビール」を飲みたいと思ったからだった。ビールの歴史を調べたこともあったが、知らなかったからである。「日本最古の酵母を使ったビールだと聞かされたからだ。数ある酵母バンクから「308酵母」を選んだと広告したからだ。なによりも、その「スーパードライ」市場導入に僕が拘わったからだ。

 

P1050969_2  今夜は、その「日本最初のビール」を復活させた品川縣ビール研究会の事務局長・永尾章二さんが、我々のために説明してくれた。

 それによると、1869年(明治2年)2月、品川県知事の古賀一平さんが、土佐藩主の下屋敷跡地(現大井3丁目付近)に官営ビール工場を作ったという記録があったそうだ。

 これまでは、その翌年の1870年(明治3年)に、米国出身の醸造技師、William Copeland(ウィリアム コープランド)が横浜にSpring Valley Brewery(スプリング・バレー醸造所)を開設した、というのが、日本のビール史では、周知されている。キリンビールの始まりである。試験に出るわけではないが、工場が出来たことと、販売されたことのいずれを最初とするかに意見が分かれる。

 

 誰もが、早くその幻のビールを飲みたいと、待ちきれなかった。

 一人1本ですよ、と斉藤翔三幹事に言われながら、手に取ったボトルは、中瓶のP1050975 330mlで、ラベルは紅白。日の丸に神社の御神籤かと思わせた。説明されたのは、「品川区」のマークだった。小振りのゴブレットに注ぐと、いわゆるイエローカラーではなく、ライトブラウン、いやロゼワイン系だった。味わってみた。どこか、イギリスの「バスペール」。エールビールのテイストだった。
飲みやすい。フルーティ。ホップの苦味は、柔らかく品がある。イケル。飲み出した周囲からも、美味いよ、と予想以上の味に驚いている。
製造元をみると、「田沢湖ビール」とある。最古の酵母は「エド酵母」。
但し、当時のレシピーは残されていないので、味は、研究会が作ったことになる。

「品川縣ビール」は、街起こしの起爆剤だったのだ。
ネックボトルには、「東京都若手商人研究会グランプリ受賞作品」とあった。
リクエストが強く、
2本目をオーダーする。

 P1050986_2

 シニアエージの会は、このまま食事をして終わりではなかった。
落語が聴けるのだ。立川談幸師匠の一席が始まった。会員に北園高校の先輩がいた。

 

P1050991 最後に、しながわ観光協会の大越さんの挨拶となった。
品川に観光がないと言われたことに奮起して、歴史を掘り起こし、観光箇所を整備し、食事処、休み処、蒔絵工房などの店舗を創り、託児所を設け、空き店舗を活性化したり、縁日を復活したりと、これまでのまちづくり協議会の活動を嬉々として語ってくれた。

P1050993  話の流れで、彼は、我々に首の瘤を見せてくれた。御輿を永年担いできた名誉の印だった。品川神社は長い階段の上げ下ろしをし、荏原神社の御輿は海へ担ぎ出すのだ。街起こしに懸命だった大越さんに、思わず拍手の音が沸いた。

 

 東京を、日本を知っているようで知らなかったことが多かった。

 初めてのオフ会は、みな満足した顔で、新馬場駅に向かった。
僕のコートのポケットには、記念の空瓶が入っている。
世界のビール瓶コレクションに新しくて古い幻の1本が加わった。

 

| | コメント (0) | トラックバック (1)