文化・芸術

2008年11月14日 (金)

ちょっと浅草まで散歩に

せっかく上野に住んでいるのだから、足腰に問題がないうちに江戸浅草界隈を歩き回ろうと思い始めた。

 

遅い昼食を終えてから、浅草まで散歩に出た。地下鉄3区間である。合羽橋商店街を抜けて、ビューホテルの裏から六区ブロードウエイに入る。P1080197P1080200 P1080289 遊園地「花やしき」の花やしき通りから木馬亭(根岸吉太郎監督の実家)に戻り、奥山お参り道を浅草寺に向かう。ウイークデーながら、かなりの人出だ。皆さん、よく知っていなさる。

「花やしき」は、江戸時代に造園師によって牡丹と菊細工を見せた花園で、日本初の”元祖ゆうえんち”でもある。

 

徳川時代に建てられた浅草寺本堂は空襲で焼けたのだが、再建された本堂が今年、50周年を迎えた。

P1080187P1080217浅草大観光祭」と銘打ったイベントで、本堂西側の1000坪の敷地で江戸の町並みが再現されたのが「浅草奥山風景」だ。大江戸庶民遊楽の地では、大道芸や見せ物小屋があったようだ。

  大木戸や辻番所、それに火見櫓などが、太秦のセットのように造られていた。江戸の伝統職人の店が二筋の路地に所狭しと並べて、気分は江戸時代。茶屋で甘味を口にする外国人、見せ物小屋に誘い込まれる親子、大声でまくし立てる啖呵口上をのけぞりながら笑っている老人達。

 

P1080233 P1080232 P1080244 背中を押されながら歩いていると、年の瀬が迫っているかのような錯覚をする。

観世流の筆捌きも祭り絵師の細かい筆の動き、浮世絵の版刷りなど目の当たりにすると、江戸職人の後継者に思わず拍手したくなるほどだ。リタイアしたであろう夫婦が長い間覗き込んで動かなかった。

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西境内の銭塚弁財天の橋を渡ると、六角堂の近くに、いくつもの灯籠が立ち並んでいた。役者の似顔絵が描かれてある。中村獅童、中村七之助、市川門之助とある。歌舞伎発祥の地とも言える猿若町に歌舞伎芝居が日本橋から転地してきた。

P1080208 P1080241 P1080250 いま、浅草寺本堂裏広場に「平成中村座」が出来ている。「キャッツ」の公演など劇団四季が短期で建ち上げて劇場小屋と同じだ。2ヶ月間の期限付き特別興行で、このプラチナチケットは、とても手に入りにくい。近くに住んでいるからと気軽に考えていて、いつも見逃す。中村勘三郎が「法界坊」を演じている。因みに、2階の「お大尽席」は35000円である。ガードマンに当日券について訊いてみた。「朝6時から並んでいるが枚数が少ないからねえ、長い列が出来ていても入れない人は気の毒だよ」と。東銀座の歌舞伎座も耐震強度の問題で、来春には一旦解体し、建て替えで閉館。2013年に再開場されるまでは、新橋演舞場などに舞台は代わりそう。

 

P1080270P1080199 芝居街だったという浅草。西参道から六区のブロードウエイに出る。幅の広いこの通りは、今でこそ人通りも少ないが、僕が上京した頃には、何本も派手な幟が立って、呼び込みの声が響いていた。
この時期、実は「下町コメディ映画祭」が始まっていたのだ。知らなかった。


元来、この六区は榎本健一が「浅草オペラ」で客を集めたところだし、あの浅草の活気を取り戻そうとした伴淳三郎は浅草サンバカーニバルを提案した。世界の北野武監督は、フランス座の芸人であった。大勝館は工事中だが、P1080277 P108018821 東洋館は「梅田花月」とまではいかないが、それでも開演前には行列が出来る。言問い通りの雷起こしのゴロゴロ会館では、よしもとの芸人が笑わせている。上野の鈴本演芸場だけでなく、この演芸ホールにも一度入ってみようと思う。ここはまさに日本の“ブロードウエイ”である。

 

P1080309今回の映画祭ではゲストが人力車パレードで雷門前まで乗り付けて、仲見世通りを浅草寺本堂まで敷いたレッドカーペットの上を歩いたとか。台東ケーブルテレビでは中継していたかも知れない。

 

P1080276 禁酒しているので残念だが、通称「ホッピー通り」を横目で見ながら、夕闇迫る時刻までぶらついて、下谷神社まで帰ってきた。9223歩だった。

忘れていた昔があちこちにある。中学生時代の日本の風景がある。歩きながら、昔を思い出す。あの「地井散歩」ではないが、こうした散歩が僕のリラクゼ―ションの方法だ。根津に住んでいたときも、歩き尽くさないままに転居してしまった気がしている。山手線の外側も、まだまだ、歩きたい江戸エリアがありすぎる。

 

 

「浅草奥山風景」は、今月の25日まで催されているから、是非、お出かけください。江戸東京博物館で開催されていた「浅草今昔展」は、16日で終わった。

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2008年6月 8日 (日)

上野界隈に住んで、三十八年目に

 新潟から船友が上京した。「国宝 薬師寺展」本展覧会は、平城遷都1300年を記念して開催するもので、日本仏教彫刻の最高傑作のひとつとして知られる金堂の日光・月光菩薩立像(国宝)が初めて寺外に揃って出た。その上野国立博物館での公開日があと3日と迫った金曜日、思い立って上京したのだ。公開当初、3月は2時間待ちもあったらしい。暑い日には、日傘サービスまで出たとか出ないとか。最終の土、日曜日は、かなり込むことが予想されるとして、新幹線に飛び乗ったのだという。

 しばらく顔を合わせていなかったので、昼食を一緒に食べようとカミサンと上野公園口に出迎えた。

 遠来の友である。上野で食事だ。寿司は、新潟に負ける。鰻の店なら、2年前「伊豆栄」に行った。上野発祥だとされているとんかつなら、「蓬莱軒」「ぽんた」「井泉」などの老舗がある。しかし、公園口からは足が遠い。

 さて、と考えた。そうだ、豆腐料理がいい。浅草の「川風」、白山の「五右衛門」、根岸の「笹乃雪」を思い浮かべる。公園口から足が短いのは、一駅先の鶯谷駅で降りる「笹乃雪」だと決めた。ここの豆腐は、「豆富」と書く。

カミサンや子供達の通った根岸小学校の真向かいだ。

 江戸で初めての絹ごし豆腐を作って、上野東叡山に納めていたようだ。輪王寺の住職に「笹の上に積もった雪のように美しいので、笹之雪と名付けるように」と褒められたのが、ネーミングの由来という。良質だと言われる地下水が店先に流れている。涼しげだ。気温は既に31℃までに上がっていた。

「水無月や、根岸涼しき、篠(ささ)の雪」正岡子規の碑が、玄関前に立っている。

 ゆっくりと、豆腐づくしの料理を口にして、昔一緒に寄港した世界一周クルーズを懐かしんだ。

 仲間が昨夜も、にっぽん丸船上からメールをしてきた。白夜の時間にも後部デッキでゲームが始まったと書いてきたが、「エジンバラから大西洋に出たが、海は大荒れで、デッキゴルフがプレイできない」とあった。

 豆腐のアイスクリームを食べ終えた。この根岸辺りを散策することにした。

080606_13070001_2 080606_13050002  林家三平のネタ帳などが展示されている三平堂は、 金曜日には入れない。開堂しているのは、「ドーもスイません」に因んで、なんと、土曜日水曜日。そして日曜日だ。再び、来た道を戻り、今度は正岡子規庵に 向かう。カミサンは、ここの小路で小学校時代の友人にバッタリ出会う。080606_13060002家族の中ではただ一人僕だけが無関係な、そういう町なのだ。

 「日暮里駅」、「鶯谷駅」の名があるように、根岸辺りは、江戸の昔から、「日暮しの里」、「呉竹の根岸の里」として、明治大正の頃まで、「竹」と「鶯」の名所として有名で、閑静で風流な土地であったという。だから、江戸時代には、画 家・俳人、学者らが住み、江戸の文化を支えた。明治20年代には、幸田露伴、岡倉天心、森鴎外も住んだ処だ。



080606_14440001   中学の修学旅行で、初めて東京に出てきたとき、いくつかの観光コースに分かれたが、僕が選んだのは、「文学コース」だった。本郷から根津、千駄木、谷中、 団子坂など文豪ゆかりの場所を歩いた。神田錦町の会社に内定するやいなや、会社勤めの居住先を本郷中心に探し回ったものだ。独身時代は本郷追分。新婚時代 が八百屋お七で有名な駒込吉祥寺。そして上野桜木、池之端、東上野と、38年間も上野の山の周辺から離れられないでいる。

080606_13130002 080606_13090001 正岡子規も、中村不折に、「文学者や美術家にとり根岸ほどよい所はない、閑静でもあり、研究にも至便の地である根岸を離れず、根岸の土となる」と語ったらしい。中村不折は、あの新宿の「中村屋」のロゴマークを書いた書家でもある。

 子規庵には、スケッチも飾ってあった。あれが中村不折からプレゼントされた絵の具で描きはじめたという絵だったのだろう。なかなか上手いものだ。うそばには、やはり江戸時代からの「羽二重団子」の店がある。きめ細かくて羽二重のようだと賞された名物の団子屋である。

080606_13100001 080606_13090003 「根岸名物芋坂團子、賣りきれ申候の笹の雪」とか、「芋坂も団子も、月のゆかりかな」と詠んで子規もお気に入りだったようだ。漱石の『吾輩は猫である』の中にも、「羽二重団子」が出てくる。

 船友は、「羽二重団子」には行ったことがあるというので、踵を返して、凌雲橋を渡って鶯谷駅の南口から忍ヶ丘中学を抜けた。

 「忍ばずの池に対して、忍ヶ丘とはこれ如何に」カミサンが歩をゆるめながら、質問をした。

 訊くと、ここから比叡山に見立てた東叡山を眺め下ろして、京都を忍ぶことをしたという古人は、東叡山の下にある池からでは、京都を忍べなかったのだという謂われがあるらしい。

 ここで船友も蘊蓄を披露した。「都を造るとき、古から風水を頭に入れる。北東は鬼門だと言われるが、その位置に寺を配置して、気を治めるのだね。京都では、北東に比叡山延暦寺を置いた。江戸は上野に寛永寺を」なるほど、なるほど。

 上野には京都があるある。五重塔もあるし、清水観音堂もある。不忍池は琵琶湖だし、池の真ん中の弁財天は、竹生島だ。そんなことを話ながらの国立博物館の横道は、見明院、本覚院、輪王寺と、ふと京都辺りを思わせる寺道になっている。

 いやいや、僕に言わせれば、名古屋の自分にとっても、まんざら縁がないわけでもない。徳川は三河の出身でもある。ここは元々、伊賀上野の大名藤堂高虎の屋敷があり、その古里の地形に似ていたことから、「上野」と呼ぶようになったのだから。

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  歩き疲れたからと、国立西洋美術館のレストラン「すいれん」に入った。初めて入ったのだが、ここは、中庭が見えてとても落ち着ける場所だった。展示チケッ トなしで入れるとは、実は知らなかった。気に入った。時折、お茶をしに来るにはいいところだ。ミュージアムショップを覗いてみる。ギリシャ、イタリア、フ ランス系の美術関係書籍が、一度にここで購入できるのもいい。

 新潟からの船友、菅井荘輔さんは、帰った。造園の専門家であり、絵も彫刻も出来る人である。また、ぶらっと、上野の美術館に遊びに来るだろう。

080606_13560001 そうそう、「ダーウイン展」が最終日だった。この「ダーウイン展」、荘輔さん夫婦と06年にロンドンの大英博物館に入った時、展示されていたものだ。偶然とはいえ、あれから、2年経って、上野でそのポスターを眼にするとは思わなかった。

 おかげで、今日半日は、あらためて、根岸の里の良さを味わえた。

 海外に出ると、日本のことをあれこれ訊かれる。日本人でありながら、彼らに上手く応えられない時を多く経験する。帰国すると、日本をあらためて知りたくなる。説明できるようになりたいものだと、「日本」を勉強し直したくなる。

 今日、その気持ちが実に良く解った。「谷根千」を随分読んでいないことにも気づいた。

今度は、浅草から足を伸ばして「蔵前」辺りも歩いてみよう。

 

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2008年4月10日 (木)

思いがけないアーティストが隣りに座る

「船旅ってな、退屈だろう?」

「来る日も来る日も、見渡すばかり、海ばかりでさ、
クック船長じゃあないが、陸地はまだか、まだかってんで、
僕なんか苛だってしまってさ、精神的に良かあないよなあ(笑)」

「まあ、ひがみじゃあないが、高級老人会の修学旅行みたいじゃあないか」

「苫小牧へ行くだけでも、家内はフェリーで酔ってしまって、ねえ」

リタイアした友人たちに、船旅に一度奥さんを連れ出してあげれば、と、水を向けても、必ずこういった会話で話がしぼんでしまう。定時に着港を義務づけられている運航船フェリーは、低気圧を避けて航路を変えることなどなかなかできないが、ロングクルーズを体験してみると、これらが、杞憂に終わる事が多い。そして「なぜ、もっと早くに乗らなかったのか」と異口同音に言い合うから不思議だ。

 案外知られていないのが、船内で催されるエンターティナ-やレクチャーをしてくれる講師の方々と、親しく語れるチャンスが多いということである。そう、どこにも出られない洋上の船というデメリットは、船客にとって予想外のメリットをもたらすのだ。互いが篭の鳥なら、その中で濃い交流が出来るというもの。

 例えば講演会で、例えば教室で、例えば演奏会場で、例えばディナーのテーブルで、そして例えば、バーの止まり木で、案外その人が気さくな人であったり、
自分がその後に影響を受ける人になったりすることを知るだろう。

Dscf3569tk最初の船旅では、講談というものを生で聴き、落語とは異にする迫力ある話術と、その物語性に引き込まれた。 失礼ながら、博覧強記の一龍齋貞心さんを知り、日本橋亭に通うようになった。噺家の古今亭菊の丞さんは、僕と近い上野界隈に住んでいることを知った。

あらたに葉子さんと知り合いになったのも船だった。国立音楽大学声楽科卒の彼女は「カフカフドゴシコ」のボーカルとして乗っていた。アメリカビルボード誌に紹介されたこともあるが、NHKの新人歌謡コンテストで優勝を逸して第2位で、惜しくも紅白歌合戦へのチケットを逃したと言いながら、昔の懐かしい日本の歌を透明な高音で歌いこなしていた。僕は、下船してから何度も彼女のライブコンサートに出掛けた。

 それから3年後、阿刀田高ご夫妻とご一緒にオーバーランドツアーに出た。
高とけいこという同じ名前の夫婦が二組いたことに妙な縁を感じながら、シエナからフィレンツェを経てモナコ港までイタリア縦断をした。

Dscf6364 5456  カナダのヴィクトリア港から日本までの航路では、これまでにないアーティストに出遭えた。立ってチェロを弾く吉川よしひろさん、トロント在住の絵本作家・イラストレーター飛鳥童さん、そして墨彩画家の王子江(おう・すこう)さんの三人だ。「ヨシ」と呼び合うほどウマがあって、何度もコンサートには出掛けているし、飛鳥さんとは家内がメール交信をしている。

 旅に出ると、公園や舗道で売っている絵を買いたくなる僕が、北京の長城に行った帰路、立ち寄った国立美術館で墨彩画を買ったことがある。毛筆で描いた洋画があった。画の中の数カ所に鮮やかな赤と緑の色を乗せていた。その絵には、鑑定書が添付されてきた。それ以来、墨彩画が気になっていた。

 その墨彩画を極めた人と言って過言ではない王さんに、船で出遭ったのだ。水墨画教室の講師としてカナダのビクトリア港から乗り込んできた。

 ある日、ドルフィンホールで王さんのメインショーが行われた。ステージ横一面に貼られた用紙に、墨をたっぷり付けた毛筆で、人物のクロッキーが描かれていく。 下絵もなしで、直接に筆を動かす。巧みな漢詩を書く柄の長い筆は、コンテのように、B4の鉛筆のように、太くも細くもなり、かなりの速さで白い用紙を埋め尽くして描かれていく。三絶(下書きせず・ハイスピード・失敗しない)というのだそうだ。洋画の基礎を徹底的に学んだことで、独特の筆致が生まれていく。

 そのデモンストレーションに唖然とした。後で訊くと、にっぽん丸の98年、00年、01年にも乗船していて、06年で4回も、世界一周クルーズの船客には知られている人だった。特に、98年の船上で描いた絵は、「黄山勝境図」として広島県の弥勒之里美術館に収蔵されているという。

 船友たちと姫路に集まったときは、姫路市中央保健センターにある30mの水墨障壁画、「過去・現在・未来」の前で記念写真を撮った。去秋には、銀座のギャラリー青羅にも出掛けた。大作を手に入れることも出来ないので、大きな美術書を買うだけだった。

 Img_0052_329歳の時、千葉の日本人が声をかけ、日本に来ることを勧められたそうだ。それ以来、千葉の茂原が第二の故郷になったと彼が言う。千葉県茂原美術館には、公開制作を経て100mの水墨障壁画「雄原大地」が収蔵されている。100m水墨障壁画は、奈良県薬師寺にも「聖煌(しょうこう)」が収められている。そしてさらに、100mの水墨画を世界で初めて常設する「王子江100m美術館」が木曽町に生まれる。この美術館には新作の3作品が描かれる。

 北京の国立中国美術館収蔵は、10m×8mの水墨作品「天地斎徳・日月同明」である。北京美術家協会会長であり、「中国当代国画家辞典」に最年少で掲載される。「(中国政府からは)中国に帰って来いと言われますが、私は日本で学びましたから、日本に永住します」と、彼を支援している方には言い切っているという。

080225_ Img0040Dscf5284 その王さんが、「上野の森美術館」全館を使って個展を開いた。現役画家では未だ3人しかいないという、極めて希な大個展となった。大作ばかり28点の一挙初公開であるから、当然ながら、NHKのテレビ画面でしか観たことのない、名作「人生楽事」が観られた。

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「人生悩みも苦しみもあるが、楽しく食事が出来ることは幸せです」ということを、中国江南地方の大衆食堂での人々の表情を見ていると、和気藹々と語り合い笑いあっている声が広がってくる。暖かい湯気が提灯の光を通して
Img_0050_2伝わってくる。美術館の壁面ぎりぎりのサイズで展示された作品群は、全館を使い切るのに充分その意味があった。歩きながら見る大きさの中に、現代の絵巻物を見る思いだった。 雄大な遠近感、流れ落ちる滝のしぶきから、木々の花、ほのかな霞、水面に映る灯り、衣服の皺から一人として同じ表情のない描き込み、杯を持つ手に箸で摘んだ食材など、それが下絵なしで直に筆を入れたとはとても思えない緻密である。 これほど大きなサイズの全体構図を頭に入れて描くことが驚異であることをあらためて実感した。館内は、大きな力強い墨彩画に圧倒された歓声がふわっと、沸き上がっていた。アラスカの氷河を背にしたにっぽん丸の大作も目にしたが、我が家に飾れそうなサイズは『雨後のマンハッ タン』を描いた小振りな絵だった。

Img0055  王さんご夫妻に会えたのは、秋以来だった。相変わらず、穏やかな笑顔で迎えてくれた。東京都美術館でも、同時に「墨の位相―現代水墨画特別展」が行われていた。

 今年もにっぽん丸は世界一周クルーズに出航する。またエンタティナーや講師との新しい縁が、ネプチューン・バーから生まれることだろう。

 

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