音楽

2009年5月20日 (水)

東京生活50年目の音楽史

最近、自分と接点のある音楽関係の番組が2本流れた。ひとつは、テレ朝での「テレサテン物語」。もうひとつは、BSハイビジョンでの「天皇皇后ご成婚50周年即位20周年記念コンサート」の録画放送である。後者の演奏会は、428日だった。

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次男にピアノを習わせていた時、リチャード・クレーダーマンが聴きたいというので、連れて行って以来のNHKホールだった。NHKより手前にある渋谷公会堂には、NET(現 テレ朝)の音楽番組「題名のない音楽会」の収録演奏を聴きに毎月通っていたものだった。

 

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この日は、青学の放送研究部の大先輩と一緒だった。開演19時。開場17時30分。それより早く16時に着いたものの、日本全国から集まった人たちで、既に長い4つ折りの行列が出来ていた。さすがに観客は、年配者の夫婦連れの方々が多かった。立ち並ぶ人たちの表情からは、奉加帳に記入する気持で皇居の中かと思わせるものがあった。私服警官と思われる鋭い眼光もありで、ただならぬ気配を感じながら、1730分を待った。ネックレスから腕時計、金属探知機に反応するすべてのものを体から外させられた。厳戒態勢である。座席は、1階席のR10列。

 

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出演者は、このコンサートのために、スイスやフランス、イタリア、アメリカと海外から一時帰国した。演奏が終われば、再び成田から帰国の途につくという、まさに世界で活躍している日本人音楽家が一堂に会して、天皇皇后を祝福するために馳せ参じた贅沢極まりない演奏会である。第2部には、お二人が臨席され、観客は総立ちでお迎えすることで拍手がしばらく鳴り止まなかった。一般の観客と同席された演奏会は、おそらくこれが初めてのことではないだろうか。

 

拍手をしながら、僕は50年前を思い出していた。美智子妃殿下はご成婚パレードで馬車に揺れていた。青学の正門を通過された。軽井沢とテニスコートとVネックセーターが強烈に浮かび上がった1959年。ミッションスクールの名古屋高校から青学に入って早々の410日だった。背伸びをしながら、ブローニー版のカメラでシャッターをやたらに切った。モノクロフィルムに収めた。ご成婚パレードが実況中継されることで、テレビの普及率が高まり、家電メーカーもテレビ局も飛躍的に経済的伸展を加速させる始まりの年となった。

 

つまり、僕自身も名古屋から上京して今年は「東京生活50周年」なのだ。

 

その50年が走馬燈のように浮かんできた。放送研究部の大先輩は、今里久雄、業界ではQさんで通っている。就活の時期、このQさんという人に巡り会っていなかったらば、今の僕はいないといっても過言ではない。媒酌人にもなって頂いた。そのQさんの隣に座っていること、そして、このコンサートの発案者が、これまた部の後輩、岩城明男君だというに、つくづく強い縁を感じた。この二人の間から、僕の生活と広告と音楽が語れるからだ。

僕の音楽との関わりは、母校のクライン・メモリアルチャペルで歌ってきた賛美歌だった。

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「放送研究部だからって、な、ハギ、放送局でなくてもいいじゃあないか」

「ええ、何処の局もアナウンサー以外、制作関係はバイトからでないと採用は難しいと言われています。といって、ウチは伊勢湾台風の罹災者だから、就職浪人にはなれないんですよ」

「広告会社はどうだ。揺りかごから墓場まで、世の中すべての企業が相手になる仕事は。生活感溢れる仕事だぞ。新聞記者になりたいだとか、局の報道部に勤めたいだとか、言っていたが、広告代理店っていうのは、だな、生活商品の報道だ。いや、新聞社やテレビ局を支えながら、しかも、仕事は、ジャーナリスティックな感度を要求されるんだぞ」

 

 青学の後夜祭の日、新宿の「ター坊」というスタンドバーで、Qさんから就職のアドヴァイスを受けたことで、「広告論」の上岡一嘉教授ゼミに入った。教授は、日本に「マーケティング」という概念を植え付けた一人である。後年、白鴎大学を創設し、初代総長になった。

Qさんは、博報堂のラジオCMのプランナーだった。それまでラジ関(当時は横浜野毛山)やフジテレ、LFにいる先輩を訪ねていたが、方向転換した。それをきっかけに、まだ薄いページでしかなかった業界雑誌「宣伝会議」と「ブレーン」を買い始めた。博報堂主催のラジオテレビ企画者養成講座の受講生にもなった。早稲田の演劇博物館に聴きに出掛けた。2週間に亘る講座のため、大学の授業は、いわゆる代返を頼んで高田馬場まで通い続けた。当時の講義ノートは、今も残してある。米国帰りの瀬木庸介ジュニアの講義に聴き入ったものだ。


 

 3年に入ると、Qさんが博報堂でバイトをしないかと誘ってくれた。日立製作所の生CMを手伝ってみろ、そうすれば、業務がみえてくるぞと言われた。博報堂が、NHKの看板アナ、高橋圭三を独立させて創る最初の番組だった。この日本版エド・サリバン・ショーは、日本初の2時間番組のスタートでもあったし、日本初のフリーアナウンサー誕生にもなった。このため、TBSがジャイアンツスタジオ(通称Gスタ)を建造した。番組アシスタントには、松任谷国子さんが決まった。放研の制作作業と日立の愛宕ビル及び倉庫と赤坂TBSと神田錦町の博報堂をかけずり回る毎日だった。

 

 P1050106 当時は入社試験には、指定校しか受けられなかった。Qさんの社内への働きかけで青学も指定校となり、明治大学での筆記試験、面接を経て博報堂に入社できた。青学から入社した7人の中に大西泰輔がいる。ソニー・レコード設立時に転社し、ビリー・ジョエルやボズ・スキャッグスらを日本に紹介することになった洋楽部長だ。彼の部は、オラトリオ・ソサイエティ合唱団員だった。因みに中高での僕はコーラス部員で、学院行事では聖歌隊にもなっていた。片や「Tai Onishi」は、世界のアーティストに知られる大きな存在だ。退社後は、ソニー名誉会長が設立した軽井沢大賀ホールの初代支配人となった。しかも、この記念コンサートで演奏するピアニスト、中村紘子が1968年にCBSソニーの専属アーティスト第1号となって初めてレコーディングをした時の初代プロデューサーでもあるのだ。


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 先輩のQさんは、あのサウンド・ロゴ「スカッとさわやか、コカコーラ」を創り、広告業界がラジオ全盛の時代に、広告賞を総ナメにした人だ。僕とQさんとの音楽関係でいえば、宮崎尚志、いずみ・たく、小野崎孝輔、小林亜星等々の作曲家の仕事場に僕を連れ歩いてくれた。また、Qさんの友人であるCM音楽プロデューサー横倉義純さんとは、大学3年当時から親しくして頂き、飛行館スタジオなどで音楽の現場を教え込まれた。赤坂のKRC(国際ラジオセンター)スタジオでは、安田章子(後の由紀さおり)やシンガーズ・スリーの伊集加代子さんで、毎晩のようにコマソンの音録りをしていた時代である。横倉さんがJAMの2代目理事長の頃だろうか、新設する音響ハウスのミクサーとして就く人たちに広告人として研修講師をやってくれと頼まれたりもした。こうした恵まれた環境で仕込まれたせいか、僕も後にアメリカのMTVへアーティストを送り出す役を担うことになった。アーティストたちは、豪州から秘かに来日した。ワーナーレコードの林さんとの仕事だった。2曲のプロモーション・ビデオを制作してMTVで流れた。「オリジナル・シン」は、いきなり全米で37位にランキングされた。


 これは、日本人が制作した初のMTVプロモ・ビデオとなった。彼らの名前は、「INXS」だった。メイキング・ビデオは、年末の特番で全豪に放送された。彼らの来日公演を僕は約束した。FROM A(ustralia)に喩えて、リクルート・フロムAの音楽イベントとして、芝郵便貯金ホールで日本デビューとなった。


 世界に活躍した彼らはその後、シドニー・オリンピックのフィナーレで歌い上げた。

 そうそう、日本のブレンダー・リー、弘田美枝子のデビューは、青学祭の放研主催のイベントだった。MCはE・H・エリック。音楽プロデューサーは、大先輩の井村文彦さん(当時、LFディレクター。現在はJ・WAVE会長を経て相談役)。舞台監督は僕だった。


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P1030819 後輩の岩城明男君は、愛知の隣県、三重の志摩半島出身で、真珠の養殖業の長男坊。下宿は最澄時と三軒茶屋で、互いに歩ける至近距離にいた。3年で彼も僕と同じゼミに入り、就職も僕の影響で、日本橋の広告会社に入った。いわゆる「腐れ縁」という関係はそれからも更に重なっていくことになる。

 

 僕は、1969年秋、名古屋で結婚式を挙げた。名古屋支社で同僚だったカメラマンが挙式の写真を撮ってくれた。木之下晃さん、通称キノサン。畳一畳分の写真ボードが東京に急送され、2回目の披露宴会場でディスプレイの役をしてくれた。

 

このキノサンが、後年、クラシック音楽写真の世界で最高峰と称賛される日本人カメラマンとなった。NHKのドキュメンタリー番組「カメラで音楽を撃て」200711月 BSハイビジョン)である。彼は、国内の音楽ホールに、次々とカメラの窓を造っていった。キノサンの姿を長期に亘って追いかけたプロデューサーが、なんと、名古屋学院時代の仲間である村田亨、テレビマンユニオン専務なのだから驚く。

 

 東京会場に選定したのは、工事中の東急ホテル赤坂。オープン3組目というメモリアルな披露宴となった。司会は、放研の同期、後の「鬼平犯科帖」の名プロデューサー、能村庸一君。メモリアルは、それだけではなかった。作曲家のいずみたくさんからコンボバンドをプレゼントされ、さらにギターで弾き語りをしてくれたのは、荒木とよひさ、アラトヨだった。未だ「四季の歌」のアラトヨではなかった。その後に、彼の母校、日芸で22年間も教壇に立つとは、この時、予想だにしなかった。



 アラトヨとの出遭いは、虎ノ門にあったグラモフォン・レコード(後のポリドール)のスタジオだった。放研の先輩が作った音楽制作会社に参加した時だった。青学のクラスメイトに渡辺栄吉、エイチャンがいた。大学では、「ブルーノーツ」というコンボバンドのキーボード担当だった。エイチャンもヤマハを受けたらしいが、グラモフォンに入社していた。エイチャンとは、ヴィレッジ・シンガーズの「バラ色の雲」、キーヨの「また会う日まで」などのヒットメーカーとなった筒美京平である。

 

 その日は、グラモフォンのスタジオでは、エイチャンにアレンジして貰ったアラトヨの曲を録音する日だった。気が合った。互いにスキーが好きだったことにも因る。僕は「スカブラ」という都連のスキークラブに入っていたし、彼はゲレンデ・パトのバイトで足を骨折した。市ヶ谷の彼のマンションに出掛けて、あれこれ曲を作ったりしていた。二人で新興楽譜出版の澤田さんへ売り込みに出掛けたこともあった。面談の先客は、まだ若かった浜圭介だった。3つ年上の僕をアラトヨは「オヤブン!」と呼んでくれた時代だった。彼がCM音楽の世界に入りたいといい、日芸の先輩に当たる「トップギャラン」を率いていた森田公一に自ら接触していった。荒木組や伝書鳩のグループで、小室やたくろうの前座を歌ったりした時期もあった。CMソングに数年間関わった後、やがて活動の舞台をレコード業界へと移し、テレサ・テンを押し上げるヒットメーカーになっていく。6月2日(土)のテレ朝番組「テレサ・テン物語」を支えた作詞家である。日芸の映画学科だった彼は、僕の仲間、小林千恵と映画作りに入り、念願の映画初監督で日本映画批評家大賞監督賞も獲った。テレビ画面で白髪のアラトヨの姿を見る度に、我々も随分と歳を取ったものだなあと来し方を妻と懐かしむ。



 日芸の教え子、渡辺秀文君、ナベがCM音楽制作会社、ミスター・ミュージックに入った。ピカピカの~イチネンセイッ!を作曲したまぶたひとみこと、吉江一男君が社長をしている会社だ。ナベは、フロムAからスーパードライまで市場導入の重要な音楽をディレクションしてくれた。名古屋支社に転勤した僕が、メナードのCMソングにテレサ・テンをリクエストした。作詞にはアラトヨも候補に挙げたが、決まったのはZARDの坂井泉水さんの詞。作曲は織田哲郎。広告音楽の世界でなければ、実現できそうにない組み合わせとなった。結婚式でも歌ってもらいたいという狙いでタイトルは「あなたと共に生きてゆく」だった。台湾へレコーディングに出向いたのはナベだった。

そして、奇しくも、それがテレサ・テン最後の曲になったのだ。アラトヨの蔭で、僕とテレサ・テンとの接点である。いまも僕の好きな歌のひとつだ。

 「CMに既成曲を使わせてほしいと頼んでくる広告会社はいても、僕に書き下ろしてくれと頼んできたのは、ハギさんが初めですよ」河島英五さんは、こういって書いてくれたが、ナベの凄いところは、そんあものじゃあない、桁違いだ。なにしろ、あのスティービー・ワンダーにオリジナルを書かせて、しかも更に細かい注文まで納得させたのだがら。キリンの缶コーヒー、「ファイア」の曲だった。

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話を戻そう。アラトヨの弾き語りを聴いた翌々日、新婚旅行は、合歓の郷に向かった。父親の車、ブルーバードを走らせた。そこは、志摩半島にヤマハの川上源一郎社長が作ろうとしていた日本初の本格的なリゾート・アイランドである。1969年、当時は、まだ報道関係者以外の利用はできなかった。それを、なんとかメモリアルな宿泊先として叶えて頂きたいと、銀座のヤマハに日参して許可を得たのだ。海の対、山の対という名のレストランには、外人数名の宿泊客が滞在していたに過ぎなかった。

広告会社の営業マンとなった岩城君のクライアントはヤマハだったことは、後々に知ることになった。あのヤマハ・ポプコンのイベントをこなす一方で、川上源一郎社長との海外出張が25回を超えるほどの信頼感を築いていった。その彼からある日、「ヤマハ音楽学院で広告音楽を講義して欲しい」と要請された。

 

目黒大鳥神社横にあった学院に出向いた。酒井教育部長(後の専務理事)と、ニックネームがライオンと呼ばれている割には柔和な山本透さんと、カリキュラムの打ち合わせをした。受講生たちは、ジュニア・オリジナル・コンサート出身で、絶対音感の鋭い耳を持った、若くて優秀なエレクトーン奏者たちだった。

彼女たちは、未だ十代後半の海江田(後に川崎)ろまんさん、土井(後に松居)慶子さん、田中(後に鎌田裕美子さん、それに大島ミチルさんだった。大島さん以外は、キーボードユニットの『COSMOS』を結成した時代もあった。そのときのディスクは、未だ我が家にあるはずだ。

 

大島ミチルさんは、1977年のエレクトーン・フェスティバル全日本大会で2位になり、「インターナショナル・エレクトーン・フェスティバル」ではグランプリを獲っている。あの大河ドラマ「天地人」のダイナミックな旋律こそは彼女の手になるものであり、今や番組音楽、CMで大活躍している作曲家であり、松居慶子さんは、全米で知られるジャズピアニストになっている。

 

岩城君がその後、ホンダF1のイベントをこなすことになるのだが、片山敬済の影響か、伊丹十三監督が中年ライダーとしてツーリングに凝るようになった。当時、僕のクライアントであった薩摩酒造の本坊松実常務が、伊丹さんの「続・女たちよ」の文中に焼酎「白波」を見つけ、CM出演を熱望してされていた。そこで岩城君の仲立ちを経て、監督とCM出演交渉に入ったことがある。日本橋の広告会社の社員が神田の広告会社の社員を助けてくれるという佳き時代だった。味の素マヨネーズとのCM契約上、味の素系三楽がバッティングするということで、不成立になった経緯がある。

岩城君は、東京フォーラムのオープンイベントを86企画もやるなど、多くの実績を持つイベントプロデューサーとなっていった。そして、広告会社を去る最後に頭に浮かんだのが、このご成婚記念コンサートだったという。昭和49年の天皇陛下写真展を高島屋で催したのが彼の勤めた会社だとするなら、昭和に継ぐ平成の記念コンサートを、彼が万雷の拍手で締めくくれたことは、この上もない名誉なこととなった。


 

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チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を弾いた神尾真由子さんのストラディヴァリウスは、力強くて透き通る見事な音色を聴かせた。圧巻だった。また、中村紘子さんの弾いたピアノは、ヤマハの最高レベルのピアノが用意されていたと聞く。ヤマハの社長もホールで一段と大きな拍手したに相違ないが、それは岩城君への感謝も込められていたことだろう。天皇皇后ご臨席賜ったという予期せぬ、最大にして最高の、岩城明男最終章にふさわしい夜となった。当然ながら、この記念すべきコンサートには、計りきれないほどの多くのプロジェクトスタッフ方々のご尽力と並々ならぬ大きなエネルギーの結晶があったからに他ならない。

 

 

P1030834 「青学90周年に日比谷でN響を、そしてご成婚50周年にNHKホールでN響。やんちゃだった岩城も、どう、ハギさん、やったでしょっ?!」

翌日、学生時代と変わらない、悪戯っぽい声が受話器の向こうで弾んでいた。

 

 

書き記しておきたかったのは、Qさんと岩城明男君と僕、青学と放送研究部の周りにあった音楽史の断片である。


・・・・・・我が家に関しては、

      長男が学習院の中等科高等科ではブラスバンドでトロンボーンを吹いていた。

・・・・・・そして、次男の子供が、最近、鍵盤の音に興味を示しはじめたようだ。

 

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2007年12月 3日 (月)

音楽という鏡に自分を写す

勤労感謝の日。飛び石連休となった祭日だというのにスポーツジムは満員だった。

ここは、都内最大の規模を誇るというスポーツジムだ。それなのに、この祭日の15時という時間帯に、ランニングマシンは2台しか空いていなかった。スパルームに踏み入れて、さらにそれは確認できた。シャワールーム、洗い場の30カ所は1カ所を除いて、すべて人で埋まっていた。上野駅内にあるとは言え、祭日である。かなりの会員が地元と言えないだろうか。飛び石連休の昼間でありながら、これだけの人が身体を動かすために通って来ている。老齢医療費の自己負担分が厳しくなってきた日本では、セルフ・メディケーションが叫ばれている。リタイアーしてからというもの、同期会の呼び出しが多くなった。そこへ顔を出すこと、つまり健康がなによりの財産だと実感している。中学高校一貫教育の男子校だった僕は、東京で生活している仲間12名ほどと、四季に集まることを決めた。

P1050325_3 P1050340_2 名古屋から東京に出てきた俺たちだから、「な・と」会と名付けた。冬季の集いは、有楽町にある日本外国特派員協会(外人記者クラブ)となった。

 

大学の放送研究部の同期会も、いつか会おう!という意味を込めて、僕が「五日会」と名付けた。卒業数年後は決まった月の五日に某レストランで集まっていた。そのレストランが閉店した以降は、毎年1回旅行会に変わった。それは、今日まで続いている。卒業して44年も経っているのに男女が旅をしている。加えて、大学のクラス会も同じように或る年から、旅行会が始まった。クラスメイトのS君が癌に冒された。励ます気持ちで、彼の望む土地に一緒に旅をしようというのが契機になった。彼の好きなゴルフを楽しもうと、毎年2日間連続で2カ所のゴルフ場をプレイする。各地に散ったクラスメイトが、彼の要望で幹事役を引き受けている。不思議なことに、S君の癌は消えたのだ。今秋は盛岡だった。来年は、賢島が決まっている。

定年退社した会社の同期会の幹事役が回ってきた。先回の六本木ヒルズ以来2年ぶりとなった。他に、早期退職した(現在もNTV「笑点」の構成者をしている)E君と(シニアカルチャーセンターの主幹をしている)T君との三人で準備をした。

 

その同期会前々日、電話が鳴った。「あのな、人工透析を宣告される日になったので、悪いが欠席させてくれ、みんなに宜しくな」力のない声だった。ショックだった。健康である者が互いに顔を合わせることに喜びを持つ同期会だったからというだけではない。既に、現職当時に透析を受けていた営業の同期生が一人他界した。そして、自分も腎不全となり、腎臓が30%しか機能していないと医師から告げられている。そこへ以て、S君からの電話だったからである。

P1050043 当日は、23名が浅草を一望出来るアサヒタワービルのアラスカに集まった。「38会」と称している。こうした集いで出る話題も、以前は孫とゴルフに尽きたが、今は健診数値と薬の話だ。医師会の会合のようになった。親権に耳を傾けるのは、手術の前の前兆、自覚症状の体験談である。二次会に流れたのは、7名に過ぎなかった。健康を頭に酒量が落ちたのだ。そのため、昭和38年入社当時の話にいつしか戻っていた。二次会は、本所吾妻橋で育った彼の案内で、住宅地の中にぽつんとある馴染みのバーへと流れた。

 

それから日が経った。

BS日テレで「音楽のある風景」を見た。番組企画は博報堂とあった。番組の終わりにCDが5枚で11800円というCMが出た。「歌が希望だった昭和30年代」というセールキャッチだった。

同じ日、日本作曲家協会50周年記念の特別番組があった。協会が設立されたのが、昭和33年、まだ高校2年生だった。P1050242_2P1050246 服部良一作曲の「蘇州夜曲」を渡辺はま子が歌った年に僕は生まれたことになる。番組の司会は、徳光和夫。同年の立教大学放送研究部出身だった。 心筋梗塞で倒れた経験をファイザー製薬から訴えている。同年の鳥越俊太郎65才の直腸癌克服体験でCMに登場している。

 

音楽を聴くにつれ、いつしか、自分の過ぎし日を想い起していた。

 

昭和24年、高峰秀子が歌う「銀座カンカン娘」は、夕飯を食べてから通うソロバン教室の行き帰りに商店から流れていた。教室では、画用紙を差し出す友達に頼まれては、せっせせっせと手塚治虫の「リボンの騎士」を描いていた。10才になった昭和25年には、笠置シズ子の「買い物ブギ」で「わて、ほんまによういわんわ」という関西弁を歌として聴いた。

 

ラジオの前に座って聴いたのが、「鐘の鳴る丘」だったり、「紅孔雀の歌」だったり、父親の手回しの蓄音機からは、岡晴夫や林伊佐雄、三浦洸一の歌が流れた。西築地小学校時代は、音楽の時間に教室で歌っていたのは、男子では僕だけだったことを思い出す。他の男子児童は、校庭に出て遊んでいてもなぜか、佐野先生は怒らなかった。

 

昭和30年の中学校の頃は、地元から同じ学校に通う遠藤が、「別れの一本杉」など、やたらと春日八郎の歌を声張り上げて歌っていた。演歌が余り好きではなかった僕も、随分遠藤の影響で歌わされたものだった。

 

高校1年、昭和32年、フランク永井の「有楽町で逢いましょう」は、修学旅行で行った東京の風景には入っていなかった。2年後上京したとき確か、有楽町橋に川が見えた。「ともしび」の歌が流れる新宿の店は、大学に入るまで知らなかった。ポール・アンカの「ダイアナ」を歌う山下敬二郎らの新しい音楽を聴ける東京には、麻薬のようなスポットがあった。銀座の「アシベ」、「美松」も新宿「スワン」も予備校通学に上京した夏に知った。裕次郎の「錆びたナイフ」は、下宿先の早稲田から、歌舞伎町を朴歯の下駄で、実は夜な夜な歩いた。安藤組が活発な時代だった。ビールが125円だった。今考えれば、ぞっとする想いだ。学内のコーラス部員だった僕らは、宗教主事・柴山満先生の下、クライン・メモリアル・チャーチでの聖歌隊にも成り代わった。

 

大学に入学した昭和34年、盛んに歌われたダークダックスの「雪山賛歌」は、スキー場で歌えなかった。伊勢湾台風で実家の軒先まで海水に浸かった学生の身としては、スキーに出掛けるどころではなかった。村田英雄の「人生劇場」が流れていた。水原弘の「黒い花びら」は、片思いだった友人と夜道で歌ったし、「僕は泣いちっち」は、高校から同じ大学に入学した守屋浩似の塚本広光が十八番の歌だった。

35年、西田佐知子「アカシアの雨が止む時」は、東大生・樺美智子さんが、国会議事堂デモで死亡した年だ。放研の部室でそのニュースを知った。毎日が、大学の部室から渋谷の恋文横丁「大江河」に寄り道して下宿に帰っていた。昭和36年、名古屋に帰った夏は、柳橋の「スケートリンク」が体育館のようなダンスホールになっていた。渡辺マリ「東京ドドンパ娘」の曲でドドンパを踊っていた。

大学3年、昭和37年、同じ年の「いつでも夢を」を歌った吉永小百合を、20数年後、会社の同期生が彼女のマネージメントをすることになった。ジェリー藤尾が「遠くへ行きたい」を歌った。GW後には就職先が内定した。大学最後の年だからと、冬はスキー三昧だった。スキークラブで行く志賀の東館山では、早朝からラッセルしてゴンドラ代を只にしてもらったり、ザイラーの滑った蔵王では、初日宿泊サービスのジンギスカン鍋を食べたくて、ゲレンデに建つ食堂の2階の宿泊場を渡り歩いたりしていた。毎晩、仲間と肩を組んで、山の歌を歌っていた。

昭和38年、博報堂入社。坂本スミ子「夢で会いましょう」嬉しげに楽しげに悲しげに…夢で会いましょうだった。

昭和39年、岸洋子の「夜明けの歌」、坂本久の「明日があるさ」、園マリの「何も言わないで」の歌に背中を押され、東京から名古屋支社へ武者修業に出された。忘れもしない東京オリンピックの年、僕の名古屋時代が始まった。東京を離れて聴く、母校青学を歌った「学生時代」を先輩のペギー葉山がヒットさせた。この歌は、青学の校歌を歌う場では、誰もが続いて歌い出す。第2校歌となっている。

 

昭和40年、加山雄三「君といつまでも」の時代、飛ぶ鳥をも落とす勢いだったクレージーキャッツのリーダー、ハナ肇を単独でTVCMに初起用した。我ながら「あっぱれ」なアグッレッシブな時だった。名古屋駅前のトヨタビルのオフィスで、当時はまだ名古屋にいた浅井慎平ちゃんと遊んでいた頃でもある。昭和41年、~飲んで棄てたい面影が、飲めばグラスにまた浮かぶ~ひばりの「悲しい酒」は、名古屋から帰任した自分を映していた。この年のヒット、「ラブユー東京」。ロスプリモスのメンバーだった後藤君が僕と繋がるとは想いもしなかった。新入社員時代、歌劇団出身の女性達が経営する店に同僚4人と通い詰めたものだ。食事を節約して、びくびくしながら、給料袋を開けずに飲みに行った。数年後、打ち明けられたのが、活躍していた弟の存在だった。後藤君はその後、谷川岳の麓に造った山荘で健康的な生活を始めたと聞いている。同じ頃、伊藤ゆかりをTVCMに初起用した。タイガーズの面々は、赤坂にあった渡辺企画の撮影スタジオの隅で盛んに練習をしていたことを思い出す。

昭和42年、ミニスカート旋風を起こしたツイギーが来日。伊藤ゆかりも「小指の想い出」がヒットする。大学のクラスメイトだった栄ちゃん(渡辺栄吉、つまり筒美京平)が、同じAMS(青学ミュージック・ソサイエティ)の先輩、橋本淳とJ-POPSの世界に躍り出た。「バラ色の雲」がヒットした。それからは「ブルーライト・ヨコハマ」、「また逢う日まで」と、筒美サウンドに酔いしれる時代が続く。後に彼は、同じカネボウを担当することになった同僚CDのために、キャンペーンソング「how manyいい顔」を作曲してくれた。

 

川口真さんの「人形の家」がヒットしたしたのは、昭和44年で、丁度僕らの結婚の年だった。日本のブレンダリーとも言われた広田美枝子が歌った。彼女のデビューは、青学祭でのPSホールだった。彼女を連れてきてくれたプロデューサーは、青学放研の先輩、LFの井村文彦さん(現FMJ-WAVE 会長)。舞台監督は僕が務めた。

 

昭和45年、~何から何まで真っ暗闇よ~どこに男の夢がある~「傷だらけの人生」鶴田浩二が歌う不吉な年が、日本が未来の技術を世界にアピールしようとした大阪万博が開かれ、月の石と三波春夫の年だった。

昭和46年は、五木ひろし「横浜たそがれ」と尾崎紀代彦「また逢う日まで」だった。この年、放研の先輩達が設立した「AMS(オール・アオヤマ・ミュージックをそのまま社名にしてしまった)」という会社に参加した。グラムフォンのスタジオで、当時、日芸の学生だった荒木豊久のレコーディングに立ち会った。彼のオリジナル曲をグラムフォンにいた筒美京平に頼んだからだ。まだ「四季の歌」は知られていなかった。荒木豊久との出会いだった。ミクシング・ルームで口ずさんでいた僕に、「かすれているが味があるわ、あなた、歌わない?」女性デレクターに真顔で誘われたことが忘れられない。僕も、名古屋支社時代の佐藤デザイナーと夜な夜な守衛に頼み込んで、CBCホールのピアノを借りて曲作りをしていた。当時、いずみたくさんの事務所に出入りしていたので、川口真さんに歌詞を見てもらったことがある。CMの音楽は、いつも作詞を僕がしていた。荒木豊久のバンド「荒木組」が吉田拓郎らの前座を務めていた。後に、いずみたくのレーベル「ガーリック」に僕が結びつけることになる。

 

昭和47年、ちあきなおみの「喝采」という歌詞の凄さに驚く。従来の歌謡曲にない、ドラマティックヒストリーが書き込まれていたからだ。絶唱型のバラードが日本にはないと、市ヶ谷の荒木豊久のマンションで語りあっていた。彼は子供のためのミュージカルが夢だと言っていた。僕も碑文谷にある木馬座の「ケロヨン」プロモーションCMを創っていた影響で、共鳴していた。あの「ケロヨ~ン!バッハハ~イ!」である。この当時、悪役キャラクターの声をアテレコしていたのが、富田耕吉さんだった。芸名、富田耕生さん。「あっぱれさんま大先生」では、ワシャガエルの声。ロッド・スタイガーやアーネスト・ボーグナインの渋い役を吹き替えている声優の大御所。いまは、熱海の山で僕の家の通り道。大熱海国際ゴルフの会員紹介者になって頂いた。30年過ぎての不思議な縁だ。

 

昭和48年、中東戦争が勃発し、「五番街のマリーへ」と「ジョニーへの伝言」という阿久悠のバタ臭いバラードが、南こうせつの「神田川」、武田鉄矢の「母に捧げるバラード」という私小説のようなバラードが音楽界を席巻した。オイルショックで、トイレットペーパーの買い溜め騒動が起きた。石油高騰と巨人軍優勝は、2007年の今年に似ている。違っているのは、今年は我がドラゴンズが日本一になったことだ。

 

昭和52年、石川さゆり「津軽海峡、冬景色」が歌われている時、日芸の放送学科で非常勤講師の二重生活が始まる。そしてそれが22年も続くことになった。

 

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ややあって、今度はテレ東の番組で「第40回日本作詞大賞の受賞発表会」を見ることになった。

司会は、やはり、立教の放研出身の徳光和夫だった。候補作には、川中美幸が歌う「金沢の雨」があった。作詞は吉岡治。彼も、確か、早稲田の放研ではなかったか。彼の学生時代のドラマ台本を僕は持っているはずである。慶応の放研出身で作家になったのは、「宇宙戦艦ヤマト」の脚本家、藤川佳介と、NHKにいた森本毅郎アナ。フジテレビのアナだった早稲田の放研出身の露木茂となる。「オジサンズ11」なんて番組には、この露木と徳光が気を吐いて、我々の世代を張ってくれている。

話はそれたが、TVの画面では、作詞家と歌手がペアとなって、スタジオに設けられた席に座っている。ステージから漏れた光の中に見慣れた横顔があった。荒木とよひさだった。2003年に、映画「いつかA列車に乗って」で、日本映画批評家大賞と監督賞を得た時から見ると、髪は真っ白になっていた。互いに歳を重ねたたものよと思った。彼の作詞した曲は堀内孝雄が歌ったが、今年は他に賞を譲った。

結果、湯川れい子審査委員長から第40回日本作詞大賞を受賞したのは、松井由利夫が作詞し中村美津子が歌った「だんじり」だった。

 

歌は、バラードが好きだ。谷村新司作曲の「サライ」や堀内孝雄作曲の「山河」、それに「時代おくれ」や「旧友再会」の河島英五の曲が好きだ。仕事を頼んだ時のあの人なつっこい顔が忘れられない。「はぎさん、僕の曲をCMで使いたいと言われる広告会社の方は、決まって、あの曲を、この曲をと、ヒットしたものを頼み込んで来られるのに、はぎさんは、また今度も、オリジナルを書けという。しかも、2本の詞から選びたいと。こういう人、居ませんよお~」それでも、受けてくれて、広告主からは喜ばれるものが出来上がる。そこには、横倉健三という、確かな音楽ディレクターが間に入ってくれていた。名古屋転勤時代には、コンサートの楽屋で豪快に笑いあったものだ。その彼が、48才という若さで逝ってしまった。182センチ、バスケットボールをし、ギターを背にオートバイでツアーをこなし、26年間に4000回以上ライブをこなした。2日に1回という驚異的なペースだった。阪神大震災以来、義援コンサートを毎年開催して、その収益金全額を震災遺児の育英のために寄付を続けていた彼。同じように NYから帰って、いま、チェロを車に乗せて全国をツアーしている吉川よしひろがいる。P1050240米国ではサムライ・チェリストと言われ、自分ではボヘミアン・チェリストと笑う。世界にも希な、演奏スタイルを編み出した。自分で開発した独特のレスリー機能を付けたブラック・ボックスを左足で操作して、二人分の音を奏でる。しかも、立ったままで、クラシックからジャズまで、バイオリンの音色からラテンギター、パーカッションの音まで聴かせる。耳に障害を持ちながら、ボランティア・コンサートも続けている。今の僕は、彼に河島スピリッツを重ねている。

 

オールディーズを聴くと、その時代の仲間の顔がフラッシュバックする。歳をとったものだなあと、述懐する。保存してあるレコードをDVDにする作業を来春からし始めないとカミサンに叱られそうだ。今夜は、歌のない曲を聴くことにしよう。浅井慎平ちゃんが企画製作したレコードだ。ウクレレを奏でながら、波の音を重ねた1枚だ。羽子板市がもうすぐだ。気持ちだけでも暑くなろうか。

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